・・・のみならずまだ新しい紺暖簾の紋も蛇の目だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗きに行った。清正は短い顋髯を生やし、金槌や鉋を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。 三三 七不思議 そのころ・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 所が泰さんの家を出て、まだ半町と行かない内に、ばたばた後から駈けて来るものがありますから、二人とも、同時に振返って見ると、別に怪しいものではなく、泰さんの店の小僧が一人、蛇の目を一本肩にかついで、大急ぎで主人の後を追いかけて来たのです・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・大連が一台ずつ、黒塗り真円な大円卓を、ぐるりと輪形に陣取って、清正公には極内だけれども、これを蛇の目の陣と称え、すきを取って平らげること、焼山越の蠎蛇の比にあらず、朝鮮蔚山の敵軍へ、大砲を打込むばかり、油の黒煙を立てる裡で、お誓を呼立つるこ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・女たちは塗りの台に花模様の向革をつけた高下駄をはいて、島田の髪が凍てそうに見えた。蛇の目の傘が膝の横に立っていた。 二時間経って、客とその傘で出て来た。同勢五人、うち四人は女だが、一人は裾が短く、たぶん大阪からの遠出で、客が連れて来たの・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・そのボロボロの長屋に柿色や萌黄の蛇の目の傘が出入りしている。 またある日。 蒲団を積んだ手荷車が盲長屋の裏を向うへ、ゆるやかな坂を向うへ上って行く。貸夜具屋が病院からの電話で持込むところと想定してみる。突当りを右へ廻れば病院の門であ・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・春雨の格子戸に渋蛇の目開きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟に埋める頤といい、さては唯風に吹かれる髪の毛の一筋、そら解けの帯の端にさえ、いうばかりなき風情が生ずる。「ふぜい」とは何ぞ。芸術的洗練を・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・やがて渋蛇の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男らしい。三人は無言のまま顔を見合せて微かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?」「女は藤紫」「男は?」・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・椽側に赤い緒の足駄と蛇の目が立てかけてあるのを見つけた。 それでも何の気なしに中に入るとうす暗い中に婆さんと向いあって思い掛けず娘が丸っこい指先で何かして居た。 仙二は二足ばかり後じさりした。 帰ろう! 稲妻の様にそう思う・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・ 縁を緑色に塗った足駄をはいて蛇の目を手にもって京子は青い瓦斯の下に立って居る。 紫の様に見える濃い髪は形のいい島田に結ばれて長目な顔にほど良い美くしさをそえて居る。 お召のあらい縞の着物に縮緬のうすい羽織をようやっと止まって居・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・門のとこにマントをかけて置いて、蛇の目を深くさして白足袋をはいて『御免下さいませ』ってやったところが、先生の奥さんが出て来て『いらっしゃいまし、どなたさまで』っておじぎをなすったんで傘をもったまんまポッカリ頭を下げると、先生が出て来られて『・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫