・・・苦しみは払い落す蜘蛛の巣と消えて剰すは嬉しき人の情ばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間に際どく擦り込む石火の楽みを、長えに続づけかしと念じて両頬に笑を滴らす。「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。「されど」と少時・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯っていた。リノリュームが膏薬のように床板の上へ所々へ貼りついていた。テーブルも椅子もなかった。恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物ででもあるかのように、ジク・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 十一 午前の三時から始めた煤払いは、夜の明けないうちに内所をしまい、客の帰るころから娼妓の部屋部屋を払き始めて、午前の十一時には名代部屋を合わせて百幾個の室に蜘蛛の網一線剰さず、廊下に雑巾まで掛けてしまった。 ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・いまはすっかり青ぞらに変ったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫えて燃えました。「ごらん、そら、風・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・そしてプンプンおこりながら、天井裏街の方へ行く途中で、二匹のむかでが親孝行の蜘蛛の話をしているのを聞きました。 「ほんとうにね、そうはできないもんだよ。」「ええ、ええ、全くですよ。それにあの子は、自分もどこかからだが悪いんですよ。そ・・・ 宮沢賢治 「クねずみ」
・・・茶色の小さい蜘蛛に似た虫が、四本のこれも勿論小さい脚でぱッ、ぱッ、砂を蹴あげながら自分の体を埋めようとしていた。ぱッと蹴る、勢いがよく、いくら髪針の先でふき子が砂の表面へ持ち出しても見る見る砂をかぶる。傍から、忠一も顔を出し、暫くそれを見て・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ジュピターの妻ジュノーの嫉妬がつのって、到頭哀れなアナキネはジュノーのために蜘蛛にさせられてしまった。そんなに織ることがすきなら、一生織りつづけているがよい、と。女神から与えられた嫉妬の復讐として、美しい織物ばかり織りつづける蜘蛛にさせられ・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・「そうでしょう。蜘蛛は網を張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹の極まった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖を当にしていつまでも待つのが厭に・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・足いと長き蜘蛛、ぬれたる巌の間をわたれり、日暮るる頃まで岩に腰かけて休い、携えたりし文など読む。夕餉の時老女あり菊の葉、茄子など油にてあげたるをもてきぬ。鯉、いわなと共にそえものとす。いわなは香味鮎に似たり。 二十一日、あるじ来て物語す・・・ 森鴎外 「みちの記」
一 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫