・・・ 大隊長は、肥り肉の身体に血液がありあまっている男であった。ハムとべーコンを食って作った血だ。「ええと、三百円のうち……」彼は、受取ったすぐ、その晩――つまり昨夜、旧ツアー大佐の娘に、毎月内地へ仕送る額と殆ど同じだけやってしまったこ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・突きこんだ剣はすぐ、さっと引きぬかねば生きている肉体と血液が喰いついてぬけなくなることを彼はきいていた。が、それを思い出したのは、相手が倒れて暫らくしてからだった。彼は、人を殺したような気がしなかった。彼は、人を一人殺すのは容易に出来得るこ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・初生の人類より滴々血液を伝え来れる地球上譜※の一節である。近時諸種の訳書に比較して見よ。如何に其漢文に老けたる歟が分るではない乎。而して其著「理学鈎玄」は先生が哲学上の用語に就て非常の苦心を費したもので「革命前仏蘭西二世紀事」は其記事文の尤・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・もっとも割れ目の空隙が厚くなるほど、これを充填した血液の水分は蒸発し、有機物は次第に分解変化して効力を失うであろうから、やはり目に見えない程度の分子的な割れ目に対して最も効力を発揮するであろうと考えられる。 以上のスペキュレーションが多・・・ 寺田寅彦 「鐘に釁る」
・・・ 数分の休息と三片のキャラメルで自分の体内の血液の成分が正常に復したと見えてすっかり元気を取りもどしてひと息に頂上までたどりつくことができた。 頂上にはD研究所のT理学士が天文の観測をするためにもう十数日来テントを張って滞在している・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・で本紅染を模する法、弱った鯛を活かす法などがあり、『織留』には懐炉灰の製法、鯛の焼物の速成法、雷除けの方法など、『胸算用』には日蝕で暦を験すこと、油の凍結を防ぐ法など、『桜陰比事』には地下水脈験出法、血液検査に関する記事、脈搏で罪人を検出す・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・のみならず、焼かれた皮膚の局部では蛋白質が分解して血液の水素イオン濃度が変わったり、周囲に対する電位が変わったり、ともかくもその付近の細胞にとっては重大な事件が起こる。それが一つの有機体であるところの身体の全部にたとえ微少でもなんらかの影響・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 冬の間はからだじゅうの乏しい血液がからだの内部のほうへ集合しているような気がする。それで手足の指などは自分のからだの一部とは思われないように冷え凍えてこちこちしている代わりに頭の中などはいいかげんにあたたかいものがよい程度に充実してい・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・ただあまりに静かな時に自分の頭の中に聞こえる不思議な雑音や、枕に押しつけた耳に響く律動的なザックザックと物をきざむような脈管の血液の音が、注意すればするほど異常に大きく強く響いてくる。しかしそれはじきに忘れてしまって世界はもとの悠久な静寂に・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
出典:青空文庫