・・・信子の大きな行李を縛ってやっていた兄がそう言った。「何を立って見とるのや」兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。「ないわ」信子がそんなに言って帰って来た。「カフスの古いので作ったら……」と彼が言うと、兄は・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・「あの神戸で頼んだ行李は盗まれやせんのじゃろうかな?」お茶を一杯のんでから、おしかは清三に訊ねた。 清三は妻を省みて苦笑していたが、「お前、そんなに心配しなくってもいゝよ!」と苦々しく云った。「荷物は、おばあさん、持ってきて・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内を過ぐる頃、馬上にて、 きていたるものまで脱いで売りはてぬ いで試みむはだか道中・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・「振り分けにして行李を肩に」なんていう蛮カラ的の事は要せぬようになりまして、男子でも鏡、コスメチック、頭髪ブラッシに衣服ブラシ、ステッキには金物の光り美しく、帽子には繊塵も無く、靴には狗の髭の影も映るというように、万事奇麗事で、ユラリユラリ・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・旅の行李の側に床を敷いてからも、場所の違ったのと、鼠の騒ぐのとで、高瀬はよく寝就かれなかった。彼の心はまだ半ば東京の方にあった。自分のために心配していてくれる人達のことなどが、夜遅くまで、彼の胸を往来した。 朝早く高瀬は屋外に出て山・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・「あのただ今船頭が行李を持ってまいりましたよ」という。「あれは私のです」と言ったまま、やっぱりずんずんと書いて行く。「それはそうですけれど、どうせこちらへ運ばなければならないのでしょう?」「ええ」「ではこの押入には、下の・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・お供と云えば唯国の役人を一人つれたきりで、いや最も屡々、自分で行李を持って歩いた。彼は、一エキュ以上する着物を着たことがない、一日に一文以上市場に払ったことがない、と自慢した。また、田舎にある自分の家は、外側に壁土をつけないものばかりだと、・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・これは、私の結婚式の時に用いただけで、家内は、ものものしく油紙に包んで行李の底に蔵している。家内は之を仙台平だと思っている。結婚式の時にはいていたのだから仙台平というものに違い無いと、独断している様子なのである。けれども、私は貧しくて、とて・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行李の中にでも押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがる恐れがある。もちろんこれは案内書や・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ ともかくも古い柳行李のふたに古い座ぶとんを入れたのを茶の間の箪笥の影に用意してその中に三毛をすわらせた。しかし平生からそのすわり所や寝所に対してひどく気むずかしいこの猫は、そのような慣れない産室に一刻も落ち着いて寝てはいなかった。そし・・・ 寺田寅彦 「子猫」
出典:青空文庫