・・・女が肩肌抜ぎで化粧をしている様やら、狭い勝手口の溝板の上で行水を使っているさままでを、すっかり見下してしまう事がある。尤も日本の女が外から見える処で行水をつかうのは、『阿菊さん』の著者を驚喜せしめた大事件であるが、これはわざわざ天下堂の屋根・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・山行伐木ノ声、渓行水車ノ声並ニ遠ク聴クベシ。遊舫ノ笙、漁浦ノ笛モ遠ケレバ自ラ韻アリ。寺鐘、城鼓モ遠ケレバマタ趣キナキニアラズ。蛙声ノ枕ニ近クシテ喧聒ニ堪ヘザルガ如キモ、隔ツレバ則チ聴クベシ。大声モト聴クニ悪シ。林ヲ隔ツレバ則チ趣ホボ水車ニ等・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・仁王のようだね。仁王の行水だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・籠が二つあるのはどうするんだと聞くと、この粗末な方へ入れて時々行水を使わせるのだと云う。これは少し手数が掛るなと思っていると、それから糞をして籠を汚しますから、時々掃除をしておやりなさいとつけ加えた。三重吉は文鳥のためにはなかなか強硬である・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・れる肌の手入れを指導しているけれども、サンマー・タイムの四時から五時、ジープのかけすぎる交叉点を、信号につれて雑色の河のように家路に向って流れる無数の老若男女勤め人たちの汗ばんだ皮膚は、さっぱりお湯で行水をつかうことさえ不如意な雑居生活にた・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
・・・ 湯殿の口には小さい妹の行水盥に水を一杯張ったのが、縦横に張り板をのせて据えて居る。 家中の、凡そ口と云う口には皆、異様な番人が長くなったり尖ったりして置いてあったのである。 私はこれなら大丈夫だと思った。 とにかく、今夜だ・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・外で行水をつかえなくなってからだけでもたててる。小銭湯の様な特別の湯槽をだれかの家へあずけて、湯のないものは、その家の家族のとは違った湯槽に入る様にしたらいいだろうのにと祖母にも云ったけれ共、湯のたて廻しなどが平常気の置けない交際機関になっ・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・と考え、さは/\と蓮うごかす池の鯉行水の捨てどころなき虫の声なんと今日の暑さはと石の塵を吹くというような純真な作品を生んでいる。釣月軒という常套的な俳号から宗房が桃青という号に改めた感情も、俳諧を言葉や思いつ・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・ あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題を剃って、髪には忠利に拝領した名香初音を焚き込めた。白無垢に白襷、白鉢巻をして、肩に合印の角取紙をつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身を潔めて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。 稲荷の社の前に来て見れば、大勢の人が出入している。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合って・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫