・・・母は省作の脱いだやつを衣紋竹にかける。「おッ母さん、茶でも入れべい。とんだことした、菓子買ってくればよかった」「お前、茶どころではないよ」と言いながら母は省作の近くに坐る。「お前まあよく話して聞かせろま、どうやって出てきたの・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 壁の衣紋竹には、紫紺がかった派手な色の新調の絽の羽織がかかっている。それが明日の晩着て出る羽織だ。そして幸福な帰郷を飾る羽織だ。私はてれ隠しと羨望の念から、起って行って自分の肩にかけてみたりした。「色が少しどうもね。……まるで芸者・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・家人の緊張は、その日より今にいたるまで、なかなか解止せず、いつの間にやら衣紋竹を全廃していた。なるほどな、とそのときはじめて気づいたことだが、かの衣紋竹にぞろっと着物かかって居るかたちは、そっくり、あの姿そのままでございました。そのほかにも・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・大礼服着たる衣紋竹、すでに枯木、刺さば、あ、と一声の叫びも無く、そのままに、かさと倒れ、失せむ。空なる花。ゆるせよ、私はすすまなければいけないのだ。母の胸ひからびて、われを抱き入れることなし。上へ、上へ、と逃れゆくこそ、われのさだめ。断絶、・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・この室は女の衣装を着替える所になっていたので、四面にずらりと衣桁を並ベ、衣紋竹を掛けつらねて、派手なやら、地味なやらいろんな着物が、虫干しの時のように並んでいる。白粉臭い、汗くさい変な香がこもった中で、自分は信乃が浜路の幽霊と語るくだりを読・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
新聞包をかかえて歩いてる。 中は、衣紋竹二本・昭和糊・キリ・ローソク・マッチ・並にラッキョーの瓶づめ一本。――世帯の持ちはじめ屡々抱えて歩かれる種類の新聞包だ。朝で、帝大構内の歴史的大銀杏の並木は晴れた秋空の下に金色だ・・・ 宮本百合子 「ニッポン三週間」
出典:青空文庫