・・・という言葉を説明することほどややこしいものはない。複雑、怪奇、微妙、困難、曖昧、――などと、当てはめようとしてもはまらぬくらい、この言葉はややこしいのだ。「あの銀行はこの頃ややこしい」「あの二人の仲はややこしい仲や」「あの道はや・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・しかしとにかく彼は私にとっては、あまりに複雑で、捉えることができないのだ。「そうかもしれないね。そして君は活きたものの、どこまでも活きて行く上の風々主義者だ。そして僕は死物の、亡者の風々主義者というわけだろう」私はすっかり絶望的な、棄鉢・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・それで君は時とすると自然の美のあまりに複雑して現われているのに圧倒せられてしまう、僕にはそんなことはない、君は自然を捉えようと試みる、僕は観て感じ得るだけを感ずる、だいぶ僕の方が楽だ。時によると僕も日記中に君の見取り図くらいなところを書きと・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・人間のもろもろの行為が人間の運命と世界過程とにいかに影響するかの複雑な方式を洞察する必要もない。ただ人間の精神に関する知識が必要なるのみである。それは心理上の事実の問題であって、世界認識の問題ではない。自己認識の問題に終始する。 かくの・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・養鶏をしている者、養豚をしている者、鰯網をやっている者もある。複雑多岐でその生活を見ているだけでもなか/\面白い。このなかに身をひそめているのはひそめかたがあると思われるのである。 二年、三年、田舎の生活に年期を入れてくるに従って、東京・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・銃声は、日本の兵士が持つ銃のとゞろきばかりでなく、もっとちがった別の銃声も、複雑にまじって断続した。 危く、蒙古犬に喰われそうになっていた浜田たちは、嬉しげに、仲間が現れた、その方へ遮二無二に馳せよった。「やア! 有難う、助かった!・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ も一ツ古い談をしようか、これは明末の人の雑筆に出ているので、その大分に複雑で、そしてその談中に出て来る骨董好きの人や骨董屋の種の性格風ふうぼうがおのずと現われて、かつまた高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものである・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・もっとも、その間には、これまで踏んだことのない土を踏み、交わったことのない人にも交わってみ、陰もあり日向もあるのだからその複雑な気持ちはちょっと言葉には尽くせない。実に無造作に、私はあの旅に上って行った。その無造作は、自分の書斎を外国の町に・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・つまり名といい、利といい、身といい、家という、無形、有形、単純、複雑の別はあっても、詮ずるところ自己の生という中心意義を離れては、道徳も最後の一石に徹しない。直観道学はそれを打ち消して利己以上の発足点を説こうけれども、自分らの知識は、どうも・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・それでも博士は、意に介しなさることなく、酔客ひとりひとりに、はは、おのぞみどおり、へへへへ、すみません、ほほほ、なぞと、それは複雑な笑い声を、若々しく笑いわけ、撒きちらして皆に挨拶いたし、いまは全く自信を恢復なされて、悠々とそのビヤホールを・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫