・・・凄い光を帯びた眼で坐中を見廻しながら「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない! 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗と鼻をぴくぴくさして牛の焦る臭を嗅・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・彼女は、乗り越したのではあるまいかと心配しながら、なお立って、停車場の構内をじろ/\見廻した。「僕、算術が二題出来なんだ。国語は満点じゃ。」醤油屋の坊っちゃんは、あどけない声で奥さんにこんなことを云いながら、村へ通じている県道を一番先に・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・オンバコやスギ菜を取って食わせる訳にもゆかず、せめてスカンポか茅花でも無いかと思っても見当らず、茗荷ぐらいは有りそうなものと思ってもそれも無し、山椒でも有ったら木の芽だけでもよいがと、苦みながら四方を見廻しても何も無かった。八重桜が時々見え・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・誰も自分の生活を見廻してみるものがないからだ、と思った。惨めだが、しかしあの女たちはちっとも自分のその惨めなことを知っていないのだ。これは恐ろしいことだと思った。彼は何度も雪やぶの中に足をふみ入れた。しかし、同時に彼は自分に対する反省を感じ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ 今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町はある。煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければな・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・そして口から怪しげな、笑うような音を洩らして、同じ群の外の男等を見廻した。「今聞いた詞は笑談ではなかったか知らん。」 男等は一人逃げ二人逃げた。彼等は内の箪笥の抽斗にまだ幾らかの金を持っている人達で、もし無心でも言われてはならないと思っ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・彼女はあらゆる人々を見廻しました。通じる話は何処にもありません。彼女は、唖の娘の言葉が分って呉れた人々の子供の時から見馴れた顔をどんなに懐しく慕わしく思ったでしょう。彼女の物を言わない胸の裡には、只、心を見透おす神ばかりに聞える、無限の啜泣・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・博士ほどのお方が、えへへへと、それは下品な笑い声を発して、ぐっと頸を伸ばしてあたりの酔客を見廻しましたが、酔客たちは、格別相手になっては呉れませぬ。それでも博士は、意に介しなさることなく、酔客ひとりひとりに、はは、おのぞみどおり、へへへへ、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・あたりを見廻しても人っ子一人いない。 晩までは安心して所々をぶらついていた。のん気で午食も旨く食った。襟を棄ててから、もう四時間たっている。まさか襟がさきへ帰ってはいまいとは思いながら、少しびくびくものでホテルへ帰った。さも忙しいという・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・熊さんはと見廻したが何処へ行ったか姿も見えぬ。 惻然として浜辺へと堤を下りた。砂畑の芋の蔓は掻き乱したように荒らされて、名残の嵐に白い葉裏を逆立てている。沖はまだ暗い。ちぎれかかった雨雲の尾は鴻島の上に垂れかかって、磯から登る潮霧と一つ・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫