・・・ 綾小路は椅背に手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓の上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴の洋書に目を着けた。傍には幅の広い篦のような形をした、鼈甲の紙切小刀が置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ ツァウォツキイは間の悪げにあたりを見廻した。そして小刀で刺した心の臓の痛み出すのを感じた。 それからツァウォツキイは急いで帰った。どっちへ向いて歩いているか、自分には分からない。しかし一度死んだものは、死に向って帰って行くより外無・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 秋三は店の間をぐるりと見廻した。が、勘次に逢うのが不快であった。彼はそのまま、帰ろうと思って敷居の外へ出かけると、「秋公帰ぬのか?」と安次が訊いた。「もう好えやろが。」「云うてくれ、云うてくれ。」「云うてくれって、お前・・・ 横光利一 「南北」
・・・僕は気味悪さに、ただそこここと見廻している斗りでしたが、「モット側へおより」と徳蔵おじにいわれて、オジオジしながら二タ足三足、奥さまの御寝なってるほうへ寄ますと、横になっていらっしゃる奥様のお顔は、トント大理石の彫刻のように青白く、静な事は・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・私は急に目覚めた心持ちであたりを見回した。私の斜めうしろには暗い枝の間から五日ばかりの月が幽かにしかし鋭く光っている。私の頭の上にはオライオン星座が、讃歌を唱う天使の群れのようににぎやかに快活にまたたいている。人間を思わせる燈火、物音、その・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫