・・・一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ 岡本は容易に坐に就かない。見廻すとその中の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可い紳士は未だ見識らぬ人である。竹内はそれと気がつき、「ウン貴様は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君と・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 紀州が小橋をかなたに渡りてより間もなく広辻に来かかりてあたりを見廻すものあり。手には小さき舷燈提げたり。舷燈の光射す口をかなたこなたと転らすごとに、薄く積みし雪の上を末広がりし火影走りて雪は美しく閃めき、辻を囲める家々の暗き軒下を丸き・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・』母親がきょろきょろと見回すと、『なに。』お梅は大きな声で返事をした。『どこにいたのさっきから。』『ここで聴いていたのよ、そして頭が痛くって……』と顔をしかめて頭をこつこつと軽くたたく。『奥へ行って、寝みな、寝てたッて聞こえ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 絶頂に達した山の上の寒さもいくらかゆるんで来た頃には、高瀬も漸く虫のような眠から匍出して、復た周囲を見廻すようになった。その年の寒さには、塾でも生徒の中に一人の落伍者を出した。 遽かに復活るように暖い雨の降る日、泉は亡くなった青年・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 田島はぼう然と、荒涼、悪臭の部屋を見廻す。「この部屋は、もとから汚くて、手がつけられないのよ。それに私の商売が商売だから、どうしたって、部屋の中がちらかってね。見せましょうか、押入れの中を。」 立って押入れを、さっとあけて見せ・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・小型のトランク一つさげて、改札口を出ると、屹っと片方の眉をあげて、あたりを見廻す。いよいよ役者の真似である。洋服も、襟が広くおそろしく派手な格子縞であって、ズボンは、あくまでも長く、首から下は、すぐズボンの観がある。白麻のハンチング、赤皮の・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・と、確かに小声で言った筈なのだが、坐ってから、あたりを見廻すと、ひどく座が白けている。もう、駄目なのである。私は、救い難き、ごろつきとして故郷に喧伝されるに違いない。 その後の私の汚行に就いては、もはや言わない。ぬけぬけ白状するというこ・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・さきの日国府津にて宿を拒まれようやくにして捜し当てたる町外れの宿に二階の絃歌を騒がしがりし夕、夕陽の中に富士足柄を望みし折の嬉しさなど思い出してはあの家こそなど見廻すうちにこゝも後になり、大磯にてはまた乗客増す。海水浴がえりの女の群の一様に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ふところ手をして縁へ腰かけてさびしい小庭を見回す。去年の枯れ菊が引かれたままで、あわれに朽ちている、それに千代紙の切れか何かが引っ掛かって風のないのに、寒そうにふるえている。手水鉢の向かいの梅の枝に二輪ばかり満開したのがある。近づいてよく見・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
出典:青空文庫