・・・部屋は根津界隈を見晴らす二階、永井荷風氏の日和下駄に書かれたると同じ部屋にあらずやと思う。その頃の先生は面の色日に焼け、如何にも軍人らしき心地したれど、謹厳などと云う堅苦しさは覚えず。英雄崇拝の念に充ち満ちたる我等には、快活なる先生とのみ思・・・ 芥川竜之介 「森先生」
・・・裏の行きとまりに低い珊瑚樹の生垣、中ほどに形ばかりの枝折戸、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃を見晴らすのである。左右の隣家は椎森の中に萱屋根が見える。九時過ぎにはもう起きてるものも少なく、まことに静かに穏やかな夜だ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・二階に客のない時は大広間の真中へ椅子を持出して、三十疊を一人で占領しながら海を見晴らす。右には染谷の岬、左には野井の岬、沖には鴻島が朝晩に変った色彩を見せる。三時頃からはもう漁船が帰り始める。黒潮に洗われるこの浦の波の色は濃く紺青を染め出し・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・登りつめるときれいな芝を植えた斜面から玉川沿いの平野一面を見晴らす事ができた。しかしそれよりも私の目をひいたのは、丘の上の畑の向こう側に柿の大木が幾本となく並んでその葉が一面に紅葉しているのであった。その向こうは一段低くなっていると見えて柿・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・青々とはれた空へ翔んでゆきでもするように高い崖から遠くを見晴らすときの面白さ。草をかきわけ走る冒険的なたのしさ。どこまでも響いて、しかも自分たちの声だけしかきこえない静かな眩ゆい崖上の明るさ。そういう子供の官能の陶酔は、にょっきり草の中から・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・その寺々が皆港を見晴らす山よりに建てられて居る。沢山の石段を自然に悠くり登り、登りきった処では誰しも一息入れたく成るだろう。其時人々の前には、眼界遙かに穏やかな入海と、櫛比した町々の屋根が展開される。 今籠町の黄檗宗崇福寺へ行って、唐門・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
出典:青空文庫