・・・其のような、蜻蛉の飛んでいる様子を見た時に、私は見逃すような穏しい子供でなかった。常に、『これはいゝあんばいだ。こんなおはぐろ蜻蛉が下に降りて飛んでいることはない』と心は躍って、きっと工夫して帽子で捕えるか、細い棒で叩き落したものである。・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・しかしそれにしてもこのボーイの外貌について、一つ著しい変化の起っているのを見逃す事は出来なかった。それは、地震前には漆のように黒かった髪の毛が、急に胡麻塩になって、しかもその白髪であるべき部分は薄汚い茶褐色を帯びている事であった。そして、思・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・がこの書の到る処に強調されているのを見逃すことは出来ないのである。 かように、一方では遁世を勧めると同時に、また一方では俗人の処世の道を講釈しているのが面白い。これは矛盾でもなんでもない。ただ同じ事のちがった半面を云っているのであろう。・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・私の見るところによると職業の分化錯綜から我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪な人間になって・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・右左をきょろきょろ見まわして、見えるほどのものは一々見逃すまいという覚悟である。しかしそれがためにかえって何も彼も見るあとから忘れてしまう。 暗い丈夫そうな門に「質屋」と書いてある。これは昔からいやな感じがする処だ。 竹垣の内に若木・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・彼の胸の屡々波打ちて涙睫に逼らんとせしは、余之を見逃す事能はざりき。余も幾度か涙に破れんとせり。森は曰く『余今に及びて彼女を娶らんとは云はず。されども初めて彼女と約する時、余はよく彼女の性質素行の如何なるものかを知り、彼女が世上に種々なる風・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ 私がそれを信じ、それに遵おうと思わずにはいられない愛の理想的状態と、真実に反省して見出した愛の現状との間には、いかに粗雑な眼も、見逃すことは出来ない径庭が在るのです。至純な愛が発露した時、若しあらゆる具体的表現が、自分の愛する者にとっ・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・人的にのみみて、客観的に大衆の負うている歴史の特殊性と日本インテリゲンツィアの動向との関係として自身の敗北をも追求し、芸術化そうとするところまで腰が据っていなかったことは、今日の文学を語る上にも決して見逃すことの出来ない重大な点である。・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・ 詩の方面では、国鉄の詩人達が職場の詩人としての成果をしめして、ますます発展しようとしていることや、勤労者によって書かれた戯曲が自立劇団の上演目録に登場しはじめたことなどを見逃すことはできません。古い天皇制的な祝日が民主的な人民の祝日に・・・ 宮本百合子 「一九四七・八年の文壇」
・・・銀色のサンダルを履き、愛嬌のある美くしい巻毛に月桂樹の葉飾りをつけた彼が、いかにも長閑な様子で現われると、行く先々のニムフ達は、どんなことがあっても見逃すことはありません。おだやかな心持のユーラスは四人の兄弟中の誰よりも、皆に大切にされ、い・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫