・・・ 歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。 一個洋服の扮装にて煙突帽を戴きたる蓄髯の漢前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後よりもまた同一様なる漢来れり。渠らは貴族の御・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・茶店の娘とその父は、感に堪えた観客のごとく、呼吸を殺して固唾を飲んだ。 ……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋。で、両掌を仰向け、低く紫玉の雪の爪先を頂く真似して、「かように穢い・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・によって、近代劇的な額縁の中で書かれていた近代小説に、花道をつけ、廻り舞台をつけ、しかもそれを劇と見せかけて、実はカメラを移動させれば、観客席も同時にうつる劇中劇映画であり、おまけにカメラを動かしている作者が舞台で役者と共に演じている作者と・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が不熱心に道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。ぞんざいで、おもしろく思えなかった。それが済むと怪しげな名前の印度人が不作法なフロックコートを着て出て来た。何かわからない言葉・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・、きまったように、こんな、大めしを食うところや、まんじゅうを十個もたべて目を白黒する場面や、いちまいの紙幣を奪い合ってそうしてその紙幣を風に吹き飛ばされてふたりあわててそのあとを追うところなどあって、観客も、げらげら笑っているが、男爵には、・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ など言って相擁して泣く芝居は、もはやいまの観客の失笑をかうくらいなものであろう。 さいきん私は、からだ具合いを悪くして、実に久しぶりで、小さい盃でちびちび一級酒なるものを飲み、その変転のはげしさを思い、呆然として、わが身の下落の取・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・踊って、すらと形のきまる度毎に、観客たちの間から、ああ、という嘆声が起り、四、五人の溜息さえ聞えた。美しいと思ったのは私だけでは無かったのである。 私は、その女の子の名前を知りたいと思った。まさか、人に聞くわけにいかない。私は十二の子供・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・学童は、観客に対して正面を向き、気を附けの姿勢を執り、眼をつぶって、低く歌う。はる、こうろうの花のえん、めぐるさかずき、影さして、ちよの松がえ、わけいでし、むかしの光、いまいずこ。(机・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・なって、やはり自身の、ありあまる教養に満足しながら、やたらにその文句を連発してサロンを歩きまわって、サロンの他の客はひとしく、これには閉口するところが、在ったように記憶しているが、私は、いまだったら、観客席から、やにわに立ち上り大声あげて、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。 ――あの日、寒かったわね。雪が降っていたんだもの。――あたし、とても生きていられないような、――でも、もうあれから一年たって、あたしたちもその時のことを、楽な気持で・・・ 太宰治 「火の鳥」
出典:青空文庫