・・・クリスマスのお祭りの、紙の三角帽をかぶり、ルパンのように顔の上半分を覆いかくしている黒の仮面をつけた男と、それから三十四、五の痩せ型の綺麗な奥さんと二人連れの客が見えまして、男のひとは、私どもには後向きに、土間の隅の椅子に腰を下しましたが、・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かぶった大学生はまったく珍らしかった様子で、この店だけは、いつ来ても大丈夫、六人の女中みんなが、あれこれとかまって呉れた。人からあなどりを受け、ぺしゃんこに踏みにじられ、ほうり出されたとき・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・「あなたさまがお召しになるので?」角帽をあみだにかぶり、袖口がぼろぼろの学生服を着ていた。「そうだ。」差し出されたセルの羽織をその学生服の上にさっと羽織って、「短かくないか。」五尺七寸ほどの、痩せてひょろ長い大学生であった。「セ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・そのガラス窓を隔ててすぐそこに、信濃町で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい令嬢が、中折れ帽や角帽やインバネスにほとんど圧しつけられるようになって、ちょうど烏の群れに取り巻かれた鳩といったようなふうになって乗っている。・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ただ中学生の自分が角帽をかぶり、少年のSちゃんが青年のS君になっていつのまにか酒をのむことを覚えていたくらいであった。熊本で漱石先生に手引きしてもらって以来俳句に凝って、上京後はおりおり根岸の子規庵をたずねたりしていたころであったから、自然・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ 活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見え・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・その代りに三角帽をのせられた本人。いそいで追っかけている後でうまく逃げろ! と燕尾服のズボンに片手を突こみ片手には手袋を振って声援しているもう一人の学生。更に一人は瓦斯街燈にからみついて他愛がない。遙か彼方から、重い体で学生監がかけつつある・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・二十三四の母親似の若旦那であった。角帽をかぶっていた。「若旦那――大学ですか」「ああ」「本郷ですか」「うん」「御卒業はいつです」「出してくれりゃあ来年さ」 面長で顔の色など、青年にしては白すぎた。いかにも母親の注・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・二年、三年とそれを着て、結婚の話が起るようになって、見合いの写真をとったのが今もあるが、少し色の褪せかけた手札形の中で、角帽をかぶり、若々しい髭をつけた父が顔をこちらに向けて立ち、着ているのは切れるだけ切りちぢめて裾が膝ぐらい迄しかなくなっ・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、蒼ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く耀きを帯びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方を向いたまま動かなかった。・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫