・・・そうしたら、二人ばかりではなく、本棚までも箪笥まで空気と同じように触ることが出来ません。それを知ってか知らないでか、二人は前の通り一生懸命に、泣きながら、しきりと僕の名を呼んで僕を探していらっしゃいます。僕も声を立てました。だんだん大きく声・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・その蝋燭が滑々と手に触る、……扱帯の下に五六本、襟の裏にも、乳の下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚る、荒神も少くはありません。 ばか・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 俗に銀線に触るるなどと言うのは、こうした心持かも知れない。尊い文字は、掌に一字ずつ幽に響いた。私は一拝した。「清衡朝臣の奉供、一切経のうちであります――時価で申しますとな、唯この一巻でも一万円以上であります。」 橘南谿の東遊記・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・その、しなりと俎の下へ伸びた皓々とした咽喉首に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨、ぜんまいが、山賤には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、※も居まいし、第一獣の臭気がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲むもののような・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・が、この学問という点が緑雨の弱点であって、新知識を振廻すものがあると痛く癪に触るらしく、独逸語や拉丁語を知っていたって端唄の文句は解るまいと空嘯いて、「君、和田平の鰻を食った事があるかい?」などと敵を討ったもんだ。 緑雨の傑作は何といっ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・真に少数なる読書階級の一角が政治論に触るゝ外は一般社会は総ての思想と全く没交渉であって、学術文芸の如きは遊戯としての外は所謂聡明なる識者にすら顧みられなかった。 二十五年前には文学士春の屋朧の名が重きをなしていても、世間は驚異の目をって・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・斜子の羽織の胴裏が絵甲斐機じゃア郡役所の書記か小学校の先生染みていて、待合入りをする旦那の估券に触る。思切って緞子か繻珍に換え給え、」(その頃羽二重はマダ流行というと、「緞子か繻珍?――そりゃア華族様の事ッた、」と頗る不平な顔をして取合わな・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ かるが故にわれは今なお牧場、森林、山岳を愛す、緑地の上、窮天の間、耳目の触るる所の者を愛す、これらはみなわが最純なる思想の錨、わが心わが霊及びわが徳性の乳母、導者、衛士たり。 ああわが最愛の友よ(妹ドラ嬢を指、汝今われと共にこの清・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・十日ばかりも居る積じゃったが癪に触ることばかりだったから三日居て出立て了った。今も話しているところじゃが東京に居る故国の者は皆なだめだぞ、碌な奴は一匹も居らんぞ!」 校長は全然何のことだか、煙に捲かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・外套のポッケットに差し入れし手先に触るる物あるをかれは堅く握りて眼を閉じつ。 この時犬高くほえしかば、急ぎて路に出で口笛鋭く吹きつつ大股に歩みて野の方に向かい、おりおり空を仰ぎては眉をひそめぬ。空は雲の脚はやく、絶え間絶え間には蒼空の高・・・ 国木田独歩 「わかれ」
出典:青空文庫