・・・雨はだんだん密になるので外套が水を含んで触ると、濡れた海綿を圧すようにじくじくする。 竹早町を横ぎって切支丹坂へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・しかも田舎にて昔なれば藩士の律儀なる者か、今なれば豪家の秘蔵息子にして、生来浮世の空気に触るること少なき者に限るが如し。これらの例をかぞうれば枚挙にいとまあらず。あまねく人の知るところにして、いずれも皆人生奇異を好みて明識を失うの事実を証す・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・うか、又は娘に相続の養子する場合にも、新旧両夫婦は一家に同居せずして、其一組は近隣なり又は屋敷中の別戸なり、又或は家計の許さゞることあらば同一の家屋中にても一切の世帯を別々にして、詰る所は新旧両夫婦相触るゝの点を少なくすること至極の肝要なり・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・その態度が私の癪に触る。……よくも考えないで生意気が云えたもんだ。儚い自分、はかない制限された頭脳で、よくも己惚れて、あんな断言が出来たものだ、と斯う思うと、賤しいとも浅猿しいとも云いようなく腹が立つ。で、ある時小川町を散歩したと思い給え。・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・見るところ聞くところ触るるところことごとく三十一字中に収めざるなし。曙覧の歌想豊富なるは単調なる『万葉』の及ぶところにあらず。〔『日本』明治三十二年四月九日〕 世に『万葉』を模せんとする者あり、『万葉』に用いし語の外は新らしき語を用・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・走者は正方形の四辺を一周せんとする者にして一歩もこの線外に出ずるを許さずしかしてこの線上において一たび敵の球に触るれば立どころに討ち死(除外を遂ぐべし。ここに球に触るるというは防者の一人が手に球を持ちてその手を走者の身体の一部に触るることに・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・一太は決して歩いて行ってそれに触るようなことはしなかったが、浅草のおばさんちにあったような鳥の剥製でもあるといいのに! 壁には髭もじゃ爺の写真がかかっているだけだ。 先刻から、一太の母と主人とは大体こんな会話をしていた。「私もそうお・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・私は、雨戸に何か触るカサカサという音を聞いた。「そう風だ、風以外の何であろうはずはないではないか、そして、あの雨どいの下にシュロが生えている、シュロの葉は大きく強く広がっていたのを私は昼間見たではないか」 私は……確り眼と耳をつぶって寝・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・ かたりおわるとき午夜の時計ほがらかに鳴りて、はや舞踏の大休みとなり、妃はおおとのごもりたもうべきおりなれば、イイダ姫あわただしく坐をたちて、こなたへさしのばしたる右手の指に、わが唇触るるとき、隅の観兵の間に設けたる夕餉に急ぐまろうど、・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・水の触るる所、砂石皆赤く、苔などは少しも生ぜず。牛の牢という名は、めぐりの石壁削りたるようにて、昇降いと難ければなり。ここに来るには、横に道を取りて、杉林を穿ち、迂廻して下ることなり。これより鳳山亭の登りみち、泉ある処に近き荼毘所の迹を見る・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫