・・・ 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・中世期の神秘主義の倫理観、古代のストアやエピクロス派の倫理観、スピノーザやショーペンハウエルの形而上学的倫理観等に触れる暇がなかった。さらに東洋の倫理観にも手が染められなかった。それは本稿の目的上、羅列を事とせずして、活きた倫理的問いを中軸・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 永井は、戦友達と共に、谷間へ馳せ下った。触れるとすぐ枝から離れて軍服一面に青い実が附着する泥棒草の草むらや、石崖や、灌木の株がある丘の斜面を兵士は、真直に馳せおりた。 ここには、内地に於けるような、やかましい法律が存在していな・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・婦人の手が触れると喜ぶなんかんという洒落た助倍の木もある。御辞宜を能くする卑劣の樹もある。這ッて歩いて十年たてば旅行いたし候と留守宅へ札を残すような行脚の樹もある。動物の中でもなまけた奴は樹に劣ッてる。樹男という野暮は即ちこれさ。元より羊は・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・ 汽車の中で、母親は恐ろしいものに触れるようにビクビクしながらきいた。「何んぼ働いても食えない村より、あこはウンと楽だって、笑っていたよ。――帰るときまで、お母アにたッしゃでいてけろと……」 母親はたった一言も聞き洩さないように・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・白い、柔な狆の毛は、あだかもおせんの頬に触れる思をさせた。 別れるのは反ってお互の為だ、そんなことをおせんに言い聞かせて、生家の方へ帰してやった。大塚さんはそれも考えて見た。 別れて何か為に成ったろうか。決してそうで無かった。後・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・しかもなおこれらのものが真に私の血と肉とに触れるような、何らの解決を齎らし来たったか。四十の坂に近づかんとして、隙間だらけな自分の心を顧みると、人生観どころの騒ぎではない。わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けた・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・鴎外を難解な、深遠のものとして、衆俗のむやみに触れるべからずと、いかめしい禁札を張り出したのは、れいの「勉強いたして居ります。」女史たち、あるいは、大学の時の何々教授の講義ノオトを、学校を卒業して十年のちまで後生大事に隠し持って、機会在る毎・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・手を触れるものがみんな黄金になるのでは飢え死にするほかはない。 職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である。自分の日々説明している物を絶えず新しい目で見直して二日に一度あるいは一月に一度でも何かしら今まで・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・学校を出てから、東京へ出て、時代の新しい空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉の愛に囚われて、今のような家庭の主婦となったことについては、彼女自身ははっきり意識していないにしても、私の感じえたところから言えば、多少枉屈的な運命の悲・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫