・・・――とにかく長谷川君の許嫁なる人は公式通りにのぼせ出したようだ。」「実際そう云う公式がありゃ、世の中はよっぽど楽になるんだが。」 保吉は長ながと足をのばし、ぼんやり窓の外の雪景色を眺めた。この物理の教官室は二階の隅に当っているため、・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ときどき波が来て私たちの坐っている床がちょっと揺れたり、川に映っている対岸の灯が湯気曇りした硝子障子越しにながめられたり、ほんとうに許嫁どうしが会うているというほのぼのした気持を味わうのにそう苦心は要らなかったほど、思いがけなく心愉しかった・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・彼が許嫁の死の床に侍して、その臨終に立会った時、傍らに、彼の許嫁の妹が身を慄わせ、声をあげて泣きむせぶのを聴きつつ、彼は心から許嫁の死を悲しみながらも、許嫁の妹の涕泣に発声法上の欠陥のある事に気づいて、その涕泣に迫力を添えるには適度の訓練を・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・息子の許嫁の薄穢い身内が来た、とT君の両親たちは思っているにちがいない。妹が私のほうに話しに来ても、「おまえは、きょうは大事な役なのだから、お父さんの傍に附いていなさい」と言って追いやった。T君の部隊は、なかなか来なかった。十時、十一時、十・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・これがまた優しくしてくれて、お母さんがいたなら、お前を故郷へ連れて行くと、どんなに可愛がって下さるだろうと、平田の寝物語に聞いていた通り可愛がッてくれるかと思うと、平田の許嫁の娘というのが働いていて、その顔はかねて仲の悪い楼内の花子という花・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・それはいちばん声のいい砲艦で、烏の大尉の許嫁でした。「があがあ、遅くなって失敬。今日の演習で疲れないかい。」「かあお、ずいぶんお待ちしたわ。いっこうつかれなくてよ。」「そうか。それは結構だ。しかしおれはこんどしばらくおまえと別れ・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
出典:青空文庫