・・・それはなにか一匹の悲しんでいる生き物の表情で、彼に訴えるのだった。 三 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。―― 彼は酔っ払った嫖客や、嫖客を呼びとめる女の声の聞こえて来る、往来に面した部屋に一人坐ってい・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・と弱々しい声を出して訴えることもある。そういうときはきまって夜で、どこから来るともしれない不安が吉田の弱り切った神経を堪らなくするのであった。 吉田はこれまで一度もそんな経験をしたことがなかったので、そんなときは第一にその不安の原因に思・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ さま/″\の溜息、呻き、訴える声、堪え難いしかめッ面などが、うつしこまれたように、一瞬に、病室に瀰漫した。血なまぐさい軍服や、襦袢は、そこら中に放り出された。担架にのせられたまゝ床の上に放っておかれた、大腿骨の折れた上等兵は、間歇的に・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 訴えるようなこの子の目は、何よりも雄弁にそれを語った。私もまんざら、こうした子供の気持ちがわからないでもない。よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を叛かせたい――それくらいのことは考えない私でもない。それにしても、少年らしい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・二十年間を、決して押売りするわけではございませんが、もういまは、私の永い抑制を破り、思い切って訴える時のようであります。どうか、失礼の段は、おゆるし下さい。 私の最近の短篇小説集、「へちまの花」を一部、お送り申しました。お読み捨て下さい・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・などと甚だあいまい模糊たる事を憂い顔で言って歎息して、それを女史のお弟子の婦人がそのまま信奉して自分の亭主に訴える。亭主はあまく、いいとしをして口髭なんかを生やしていながら「うむ、子供の純真性は大事だ」などと騒ぐ。親馬鹿というものに酷似して・・・ 太宰治 「純真」
・・・それだからこれは野蛮民の戦争踊りが野蛮民に訴えると同じ意味において最高の芸術でなければならないのである。これと同じ意味においてまたわが国の剣劇の大立ち回りが大衆の喝采を博するのであろう。荒木又右衛門が三十余人を相手に奮闘するのを見て理屈抜き・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・しかしそれよりも、もっと直接に自覚的な筋肉感覚に訴える週期的時間間隔はと言えば、歩行の歩調や、あるいは鎚でものをたたく週期などのように人間肢体の自己振動週期と連関したものである。舞踊のステップの週期も同様であって、これはまた音楽の律動週期と・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・彼らの或者はもはや最後の手段に訴える外はないと覚悟して、幽霊のような企がふらふらと浮いて来た。短気はわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。しかし誰が彼らをヤケにならしめたか。法律の眼から何と見ても、天の眼からは彼らは乱・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・それから直接に官能に訴える人巧的な刺激を除くと、この巣の方が遥かに意義があるように思われるんだから、四辺の空気に快よく耽溺する事ができないで迷っちまいます。こんな中腰の態度で、芝居を見物する原因は複雑のようですが、その五割乃至七割は舞台で演・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
出典:青空文庫