・・・何でも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折悪く河岸の西辰と云う大檀家の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣の胸に、熱の高い子供を抱いたまま、水晶の念珠を片手にかけて、いつもの通り平然と、読経をすませたとか云う事でした。「しかし・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・阿闍梨は、思わず読経の声を断った。――「誰じゃ。」 すると、声に応じて、その影からぼやけた返事が伝って来た。「おゆるされ。これは、五条西の洞院のほとりに住む翁でござる。」 阿闍梨は、身を稍後へすべらせながら眸を凝らして、じっ・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・ 手当も出来ないで、ただ川のへりの長屋に、それでも日の目が拝めると、北枕に水の方へ黒髪を乱して倒れている、かかる者の夜更けて船頭の読経を聞くのは、どんなに悲しかろう、果敢なかろう、情なかろう、また嬉しかろう。「妙法蓮華経如来寿量品第・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・彼は山中に読経唱題して自ら精進し、子弟を教えて法種を植え、また著述を残して、大法を万年の後に伝えようと志したのであった。さてその身延山中の聖境とはどんな所であろう。「此の山のていたらく……戌亥の方に入りて二十余里の深山あり。北は身延山、・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・かつて聞いた事のない唱歌のような読経のような、ゆるやかな旋律が聞こえているが何をしているか外からは見えない。一段高い台の上で映画撮影をやっているのが見える。そこを通り抜けて停車場の方へと裏町を歩いていると家々からラジオが聞こえ、それが今聞い・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・この一篇で、幽閉された女中等が泣いたり読経したりする中に小唄を歌うのや化物のまねをして人をおどすのがあったりするのも面白い。その外にも、例えば「人の刃物を出しおくれ」「仕もせぬ事を隠しそこなひ」のような諸篇にも人間の機微な心理の描写が出てい・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・そして広大なるこの別天地の幽邃なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何か知ら心の奥深く、騒しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される時、この霊廟の来歴を説明する僧侶のあたかも読経するような低い無表情の声を聞け。――昔は十万石以上・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・余が枕辺近く寄って、その晒しを取り除けた時、僧は読経の声をぴたりと止めた。夜半の灯に透かして見た池辺君の顔は、常と何の変る事もなかった。刈り込んだ髯に交る白髪が、忘るべからざる彼の特徴のごとくに余の眼を射た。ただ血の漲ぎらない両頬の蒼褪めた・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・ 柩が白い花と六本の小さい蝋燭に飾られ、読経の間に風が吹いて、六つの光が一つ消え、一つ消え、段々消えて、最後まで左右に一つずつの燭が風に揺れながら灯りつづけた。小さい二つの輝は大変美しかった。彼の眼のようであった。その柩の雰囲気と坊さん・・・ 宮本百合子 「田端の坂」
・・・なんかと云ってその日は常よりも読経の時を長くし御線香も倍ほどあげたりして居た。 夜から私達は庭に出る度にキットこの花の中をのぞいてばかり居た。その中に小さい子供が風流熱にかかったりしたんでだれもかれも申し合わせたように花の事なんかは・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
出典:青空文庫