・・・しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・諸君は謀叛人を容るるの度量と、青書生に聴くの謙遜がなければならぬ。彼らの中には維新志士の腰について、多少先輩当年の苦心を知っている人もあるはず。よくは知らぬが、明治の初年に近時評論などで大分政府に窘められた経験がある閣臣もいるはず。窘められ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・とあまり感嘆されても困るから、ちょっと謙遜して見たが、どっちにしても別に変りはないと思うと、自分で自分の言っている事がいかにも馬鹿らしく聞える。こんな時はなるべく早く帰る方が得策だ、長座をすればするほど失敗するばかりだと、そろそろ、尻を立て・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 余計な謙遜はしたくない。骨を折って自家の占め得た現代文壇における地位だけは、婉曲にほのめかして置きたい。ただしほのめかすだけである。傲慢に見えてはならない。 ピエエル・オオビュルナンは満足らしい気色で筆を擱いた。ぎごちなくなった指・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋竹笋の間より起たしむるあたわざりしもの何がゆえぞ。謙遜か、傲慢か、はた彼の国体論は妄に仕うるを欲せざりしか。いずれにもせよ彼は依然として饅頭焼豆腐の境涯を離れざりし・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ ほんとうにその返事は謙遜な申し訳けのような調子でしたけれども私はまるで立っても居てもいられないように思いました。 そしてそれっきり浪はもう別のことばで何べんも巻いて来ては砂をたててさびしく濁り、砂を滑らかな鏡のようにして引いて行っ・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・の人々が精神こめて、一生かかって芸術化した世界は、これほどどっさりあるのに、こんな小さい自分の人生であっても、やっぱりほかの誰にもかかれていず、自分しか書けないことがあるのだ、という発見こそ、その人を謙遜な勇気にふるいたたせ、人生の豊富さと・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・木村の詞は謙遜のようにも聞え、弁解のようにも聞えた。「そうすると文学の本に発売禁止を食わせるのは影を捉えるようなもので、駄目なのだろうかね。」 木村が犬塚の顔を見る目はちょいと光った。木村は今云ったような犬塚の詞を聞く度に、鳥さしが・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・ 異才の弟子の能力に高田も謙遜した表情で、誇張を避けようと努めている苦心を梶は感じ、先ずそこに信用が置かれた気持良い一日となって来た。「ときどきはそんな話もなくては困るね。もう悪いことばかりだからなア。たった一日でも良いから、頭の晴・・・ 横光利一 「微笑」
・・・私は才能を誇りながらついに何の仕事をも成し遂げない高慢な人よりも、才能の乏しい謙遜な人の方をはるかに愛しなつかしみます。 けれども私は、同じく自分の凡庸を意識していても、それをごまかそうとかかっている人に同情する事はできません。彼らは何・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫