・・・が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・卓子を並べて、謡本少々と、扇子が並べてあったから、ほんの松の葉の寸志と見え、一樹が宝生雲の空色なのを譲りうけて、その一本を私に渡し、「いかが。」「これも望む処です。」 つい私は莞爾した。扇子店の真上の鴨居に、当夜の番組が大字で出・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・「この店譲ります」と貼出ししたまま、陰気臭くずっと店を閉めたきりだった。柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。貯えの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。ある日、二階の・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・夫婦は燈つけんともせず薄暗き中に団扇もて蚊やりつつ語れり、教師を見て、珍らしやと坐を譲りつ。夕闇の風、軽ろく雨を吹けば一滴二滴、面を払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。 その後教師都に帰りてより幾年の月日経ち、ある冬の夜、・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 桂家の屋敷は元来、町にあったのを、家運の傾むくとともにこれを小松山の下に運んで建てなおしたので、その時も僕の父などはこういっていた、あれほどのりっぱな屋敷を打壊さないでそのまま人に譲り、その金でべつに建てたらよかろうと。けれども、桂正・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・で、「それならばこの新鼎は自分に御譲りを願う、真品と共に秘蔵して永く副品としますから」というので、四十金を贈ったということである。無論丹泉はその後また同じ品を造りはしなかったのであろう。 この談だけでもかなり骨董好きは教えられるところが・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・その間に少年は自分が見詰められているのも何にも気が着かないのであろう、別に何らの言語も表情もなく、自分の竿を挙げ、自分の坐をわたしに譲り、そして教えてやった場処に立って、その鉤を下した。 ヤ、有難う。と自分は挨拶して、乱杭のむこうに・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ 昔は、人に道を譲り、人と利福を分かつという事が美徳の一つに数えられた。今ではそれはどうだかわかりかねる。しかしそういう美徳の問題などはしばらくおいて、単に功利的ないし利己的の立場から考えても、少なくも電車の場合では、満員車は人に譲って・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・それは他日御面会の節に譲ります。不折は男性、女性、中性を見ずに帰りましたね。不折は奴的の画が好きなんだろうと思います。凡鳥君によろしく。以上。六月十二日 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・その時譲りを受けたるヘンリーは起って十字を額と胸に画して云う「父と子と聖霊の名によって、我れヘンリーはこの大英国の王冠と御代とを、わが正しき血、恵みある神、親愛なる友の援を藉りて襲ぎ受く」と。さて先王の運命は何人も知る者がなかった。その死骸・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫