・・・第一、馬車は何時に出るか聞いて貰いたい」「馬車でどこへ行く気だい」「どこって熊本さ」「帰るのかい」「帰らなくってどうする。こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。ゆうべ、あの枕元でぽんぽん羽目を蹴られたには実に弱ったぜ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・自惚れて見ても、勇気を振い起して見ても、寄りつける訳のものじゃない処の日本の娘さんたちの、見事な――一口に云えば、ショウウインドウの内部のような散歩道を、私は一緒になって、悠然と、続きの菜っ葉服を見て貰いたいためででもあるように、頭を上げて・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・きょうは貰いがなかったのかい。おれだっておめえと同じ事だ。まずい商売だよ。競争者が多過ぎるのだ。お得意の方で、もう追っ附かなくなっている。おれなんぞはいろんな事をやってみた。恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・世間無数の老人夫婦が倅に嫁を迎え娘に養子を貰い、無理に一家の中に同居して時に衝突を起せば、乃ち言く、是れ程に手近く傍に置て優しく世話するにも拘らず動もすれば不平の色ありとて、愚痴を洩す者多し。毎度聞く所なれども、何ぞ計らん、其手近くせられて・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・その熟している己ではないから、どうぞ許して貰いたい。己はまだこの世の土に噛り付いていたいのだ。お前に逢うての怖しさに、己の縛が解けてしまった。どうやらこれからは本当に生きて見られそうな。今のように強い欲望があるからは、この世の物事に魂を打入・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・彼は銭を糞の如しとは言わず、あどけなくも彼は銭を貰いし時のうれしさを歌い出だせり。なお正直にも彼は銭を多く貰いし時の思いがけなきうれしさをも白状せり。仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・そして毎年、冬のはじめにはきっと粟餅を貰いました。 しかしその粟餅も、時節がら、ずいぶん小さくなったが、これもどうも仕方がないと、黒坂森のまん中のまっくろな巨きな巌がおしまいに云っていました。・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・で見たことはまた別のときに話すとして、その朝ドン煙草工場で見たことを、わたしはみなさんに聞いて貰いたいと思う。 少しダラダラ坂になった通りを行くと、右側に煉瓦の大きい工場が現れた。がっしりとした門にソヴェト同盟の国標、鎚と鎌をぶっちがえ・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・構わずにというが、著作だけはさせて貰いたい。それを見当違に罵倒したりなんかせずに置いてくれれば好いと思うのである。そして少数の人がどこかで読んで、自分と同じような感じをしてくれるものがあったら、為合せだと、心のずっと奥の方で思っているのであ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・すると、急にそのとき腹痛が起り、どうしても今日だけは赦して貰いたいと栖方は歎願した。軍では時日を変更することは出来ない。そこで、その日は栖方を除いたものだけで試験飛行を実行した。見ていると、大空から急降下爆撃で垂直に下って来た新飛行機は、栖・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫