・・・広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を噛み合せて猿のように唇の間からむき出しながら仁右衛門の前に立・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・――しかし、婦人の手に水をかけたのは生れてからはじめてだ。赤ん坊になったから、見ておくれ。お庇で白髪が皆消えて、真黒になったろう。」 まことに髪が黒かった。教授の顔の明るさ。「この手水鉢は、実盛の首洗の池も同じだね。」「ええ、縁・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 僕の家は、病人と痩せッこけの住いに変じ、赤ん坊が時々熱苦しくもぎゃあぎゃあ泣くほかは、お互いに口を聴くこともなく、夏の真昼はひッそりして、なまぬるい葉のにおいと陰欝な空気とのうちに、僕自身の汗じみた苦悶のかげがそッくり湛っているようだ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・お宮へおまいりをして、お婆さんは山を降りて来ますと、石段の下に赤ん坊が泣いていました。「可哀そうに捨児だが、誰がこんな処に捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに私の眼に止るというのは何かの縁だろう。このままに見捨て・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・お宮へおまいりをして、おばあさんは山を降りてきますと、石段の下に、赤ん坊が泣いていました。「かわいそうに、捨て子だが、だれがこんなところに捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに、私の目に止まるというのは、なにかの縁・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・しかし、乳が乏しいのでした。赤ん坊は、毎晩夜中になると乳をほしがります。いま、お母さんは、この夜中に起きて、火鉢で牛乳のびんをあたためています。そして、もう赤ちゃんがかれこれ、お乳をほしがる時分だと思っています。」「二人の子供はどんな夢・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・ しかし、二七日の夜、追悼浄瑠璃大会が同じく日本橋クラブの二階広間で開かれると、お君は赤ん坊を連れて姿を見せ、校長が語った「紙治」のサワリで、ぱちぱちと音高く拍手した。手を顔の上にあげ、人眼につき、ひとびとは顔をしかめた。軽部の同僚の若・・・ 織田作之助 「雨」
・・・おむつをきらう赤ん坊のようだ。仲仕が鞭でしばく。起きあがろうとする馬のもがきはいたましい。毛並に疲労の色が濃い。そんな光景を立ち去らずにあくまで見て胸を痛めているのは、彼には近頃自虐めいた習慣になっていた。惻隠の情もじかに胸に落ちこむのだ。・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・しかし、やや分厚い柔かそうな下唇や、その唇の真中にちょっぴり下手に紅をつける化粧の仕方や、胸のふくらみのだらんと下ったところなど、結婚したらきっと子供を沢山産んで、浴衣の胸をはだけて両方の乳房を二人の赤ん坊に当てがうであろうなどと私はひそか・・・ 織田作之助 「大阪発見」
夫が豊多摩刑務所に入ってから、七八ヵ月ほどして赤ん坊が生れた。それでお産の間だけお君はメリヤス工場を休まなければならなかった。工場では共産党に入っていた男の女房を一日も早く首にしたかったので、それがこの上もなくいゝ機会だっ・・・ 小林多喜二 「父帰る」
出典:青空文庫