・・・俺は今日午休み前に急ぎの用を言いつけられたから、小走りに梯子段を走り下りた。誰でもこう言う瞬間には用のことしか思わぬものである。俺もそのためにいつの間にか馬の脚を忘れていたのであろう。あっと言う間に俺の脚は梯子段の七段目を踏み抜いてしまった・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・おばあさまも、おとうさんも、おかあさんも、妹や弟たちもどうしているだろうと思うと、とてもその先までどなって歩く気にはなれないで、いきなり来た道を夢中で走りだした。走りながらもぼくは燃え上がる火から目をはなさなかった。真暗ななかに、ぼくの家だ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ その中でこの犬と初めて近づきになったのは、ふと庭へ走り出た美しい小娘であった。その娘は何でも目に見えるものを皆優しい両手で掻き抱き、自分の胸に押しつけたいと思うような気分で、まず晴れ渡った空を仰いで見て、桜の木の赤味を帯びた枝の方を見・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 走りはしません、ぽたぽたぐらい。一人児だから、時々飲んでいたんですが、食が少いから涸れがちなんです。私を仰向けにして、横合から胸をはだけて、……まだ袷、お雪さんの肌には微かに紅の気のちらついた、春の末でした。目をはずすまいとするか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 続いて奈々子が走り込む。「おっちゃんあっこ、おっちゃんあっこ、はんぶんはんぶん」 といいつついきなり父に取りつく。奈々子が菓子ほしい時に、父は必ずだっこしろ、だっこすれば菓子やるというために、菓子のほしい時彼はあっこあっこと叫・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・けれど、汽車だけは休まずに走りつづけています。」と、下界のようすをくわしく知っている星は答えました。「よく、そう体が疲れずに、汽車は走れたものだな。」と、運命の星は、頭をかしげました。「その体が、堅い鉄で造られていますから、さまで応・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・ あっという間に、闇の中へ走りだしてしまった。 私はことの意外におどろいた。「あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ直ぐ行けばいいんですか。宿はすぐ分りますか」「へえ、へえ、すぐわかりますでやんす。・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 此の時分から彼は今まで食べていた毎日の食物に飽きたと言い、バターもいや、さしみや肉類もほうれん草も厭、何か変った物を考えて呉れと言います。走りの野菜をやりましたら大変喜びましたが、これも二日とは続けられません。それで今度はお前から注文・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・私は母の鏡台の前まで走りました。そして自分の青ざめた顔をうつしました。それは醜くひきつっていました。何故そこまで走ったのか――それは自分にも判然しません。その苦しさを眼で見ておこうとしたのかも知れません。鏡を見て或る場合心の激動の静まるとき・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫