・・・五六日は身体が悪いって癇癪ばかり起してネ、おいらを打ったり擲いたりした代りにゃあ酒買いのお使いはせずに済んだが、もう癒ったからまた今日っからは毎日だろう。それもいいけれど、片道一里もあるところをたった二合ずつ買いに遣されて、そして気むずかし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・――母親は貧血を起していた。「ま、ま、何んてこの塀! とッても健と会えなくなった……」 仕方なくお安だけが面会に出掛けて行った。しばらくしてお安が涙でかたのついた汚い顔をして、見知らない都会風の女の人と一緒に帰ってきた。その人は母親・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・は大事の色がと言えばござりますともござりますともこればかりでも青と黄と褐と淡紅色と襦袢の袖突きつけられおのれがと俊雄が思いきって引き寄せんとするをお夏は飛び退きその手は頂きませぬあなたには小春さんがと起したり倒したり甘酒進上の第一義俊雄はぎ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・何か為て、働いて、それから頼むという気を起したらば奈何かね。」「はい。」と、男は額に手を宛てた。「こんなことを言ったら、妙な人だと君は思うかも知れないが――」と自分は学生生活もしたらしい男の手を眺めて、「僕も君等の時代には、随分困っ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・女の人は少し頭痛がしたので奥で寝んでいたところ、お長が裏口へ廻って、障子を叩いて起してくれたのだと言う。「もう何ともございません」と伏し目になる。起きて着物をちゃんとして出てきたものらしい。ややあって、「あなたはこの節は少しはおよろ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 私は上半身を起して、「窓から小便してもいいかね。」 と言った。「かまいませんわ。そのほうが簡単でいいわ。」「キクちゃんも、時々やるんじゃねえか。」 私は立上って、電燈のスイッチをひねった。つかない。「停電ですの・・・ 太宰治 「朝」
・・・ かれは苦しい身を起こした。 「どうしてこの車に乗った?」 理由を説明するのがつらかった。いや口をきくのも厭なのだ。 「この車に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重すぎるんだ。お前は十八聯隊だナ。豊橋だナ」 うなず・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。これは危険の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人にすすめる事ので・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ 話題が少し切迫してきたので、二人は深い触れ合いを避けでもするように、ふと身を起こした。「海岸へ出てみましょうか」桂三郎は言った。「そうだね」私は応えた。 ひろびろとした道路が、そこにも開けていた。「ここはこの間釣りに来・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・を独自に起した、地方には珍らしい人物であった。三吉は彼にクロポトキンを教えられ、ロシア文学もフランス文学も教えられた。土地の新聞の文芸欄を舞台にして、彼の独特な文章は、熊本の歌つくりやトルストイアンどもをふるえあがらせた。五尺たらずで、胃病・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫