・・・「雇ったのは引き越す時だが約束は前からして置いたのだからね。実はあの婆々も四谷の宇野の世話で、これなら大丈夫だ独りで留守をさせても心配はないと母が云うからきめた訳さ」「それなら君の未来の妻君の御母さんの御眼鏡で人撰に預った婆さんだか・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・是等に関する英書は随分蒐めたもので、殆ど十何年間、三十歳を越すまで研究した。呉博士と往復したのも、参考書類を読破しようという熱心から独逸語を独修したのも、此時だ。けれども其結果、どうも個人の力じゃ到底やり切れんと悟った。ヴントの実験室、ジェ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・エピクロス派の耽美家が初老を越すと、相手の女の情欲を芸術的に研究しようと云う心理的好奇心より外には、もうなんの要求をも持っていない。これまでのこの男の情事は皆この方面のものに過ぎなかった。それがもう十年このかたの事である。 ピエエル・オ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・つゝじ咲て石うつしたる嬉しさよ更衣八瀬の里人ゆかしさよ顔白き子のうれしさよ枕蚊帳五月雨大井越えたるかしこさよ夏川を越す嬉しさよ手に草履小鳥来る音嬉しさよ板庇鋸の音貧しさよ夜半の冬のごときこれなり。普通・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・栗の木を越すようにさ。そいつを空へ投げるんだよ。なんだい、ふるえてるのかい。いくじなしだなあ。投げるんだよ。投げるんだよ。そら、投げるんだよ。」 ブドリはしかたなく力いっぱいにそれを青空に投げたと思いましたら、にわかにお日さまがまっ黒に・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・それからあとプロレタリア文化文学運動の圧殺されたのち、『冬を越す蕾』『明日への精神』が、辛うじて出版された時代の文章は、どうだろう。それはすべて奴隷の言葉、奴隷の表現でかかれなければならなかった。文章は曲線的で、暗示的で、常に半分しか表現し・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第九巻)」
・・・「冬を越す蕾」は、同じ一九三四年の十一月にかかれ、複雑で困難な転向の問題をとりあげている。こんにちのわたしとしては、もう一つ二つのことに触れられていたら、もっとよかったと思うところもある。その主な一つは、治安維持法そのものの野蛮性の抉剔・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・鶏は垣を越すものと見える。坊主が酒を般若湯というということは世間に流布しているが、鶏を鑽籬菜というということは本を読まないものは知らない。鶏を貰った処が、食いたくもなかったので、生かして置こうと思った。生かして置けば垣も越す。垣を越すかも知・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで観風旅行をした。浅葱織色木綿の打裂羽織に裁附袴で、腰に銀拵えの大小を挿し、菅笠をかむり草鞋をはくという支度である。旅から帰ると、三十一になるお佐代さんがはじめて男子を生んだ。のちに「岡の小町」そっくりの美・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・しかしわが国では、文芸家や思想家の多くは、四十を越すか越さないころからもう老衰し始めています。これはおもに青春期の「教養」を欠いたからです。彼らは青春期の不養生によって、人間としての素質を鞏固ならしめることができませんでした。頭と心臓がすぐ・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫