あしかがまさとも【足利政知】
[1435〜1491]室町中期の武将。義教 (よしのり) の子。初め天竜寺の僧。足利成氏 (しげうじ) 征討のため還俗 (げんぞく) 、伊豆堀越 (ほりごえ) (静岡県伊豆の国市)にとどまり、堀越公方と称して古河公方 (こがくぼう) 成氏と対立。
あしかがもちうじ【足利持氏】
[1398〜1439]室町前期の武将。鎌倉公方 (くぼう) 。永享10年(1438)関東管領上杉憲実 (うえすぎのりざね) と対立。幕府軍と戦って敗れ、鎌倉で自刃。→永享の乱
あしかがもとうじ【足利基氏】
[1340〜1367]南北朝時代の武将。尊氏の子。初代の鎌倉公方 (くぼう) となり、東国に室町幕府の勢力を確立した。
あしかがよしあき【足利義昭】
[1537〜1597]室町幕府第15代将軍。在職1568〜1573。初め奈良一乗院に入り覚慶と称したが、還俗 (げんぞく) して義秋、のち義昭と改めた。織田信長に擁立されて将軍となったが、のち、信長を討とうとして京都を追われ、室町幕府は滅亡した。諸国を流浪した後、大坂で死去。
あしかがよしあきら【足利義詮】
[1330〜1367]室町幕府第2代将軍。在職1359〜1367。尊氏の子。尊氏の名代として、新田義貞の鎌倉攻めに参加。尊氏の死後、正平13=延文3年12月(1359年1月)将軍となった。
あしかがよしかず【足利義量】
[1407〜1425]室町幕府第5代将軍。在職1423〜1425。義持の子。17歳で将軍となったが、2年後病死。
あしかがよしかつ【足利義勝】
[1434〜1443]室町幕府第7代将軍。在職1442〜1443。義教 (よしのり) の子。嘉吉2年(1442)8歳で家督を継いだが、2年後病死。
あしかがよしずみ【足利義澄】
[1481〜1511]室町幕府第11代将軍。在職1495〜1508。足利政知 (まさとも) の子で、義政の養子。細川政元に擁立されて将軍となったが、永正5年(1508)前将軍義稙 (よしたね) に将軍職を追われた。 [補説]6歳で出家し清晃 (せいこう) と名乗る。明応2年(1493)に還俗 (げんぞく) して義遐 (よしとお) 、同年、義高 (よしたか) 、文亀2年(1502)に義澄と改名している。
あしかがよしたね【足利義稙】
[1466〜1523]室町幕府第10代将軍。義視 (よしみ) の子。延徳2年(1490)将軍となり、明応2年(1493)細川政元に追われたが、永正5年(1508)再び将軍となった。大永元年(1521)管領細川高国の乱により淡路に逃れた。島公方 (しまくぼう) 。流れ公方。 [補説]初名は義材 (よしき) 。明応7年(1498)に義尹 (よしただ) 、永正10年(1513)に義稙と改名している。
あしかがよしてる【足利義輝】
[1536〜1565]室町幕府第13代将軍。在職1547〜1565。義晴の子。三好・松永氏らの勢力が強く、将軍職は有名無実であった。松永久秀に攻められて敗死。