・・・その方をちらりと見て、坂田は足跡もないひっそりした細い雪の道を折れて行った。足の先が濡れて、ひりひりと痛んだ。坂田は無意識に名刺を千切った。五町行き、ゆで玉子屋の二階が見えた。陰気くさく雨戸がしまっていたが、隙間から明りが洩れて、屋根の雪を・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。 行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家を捜し始めた。「大家さんが交番へ行ってくださったら、俺の管轄内に事故のあったことがないって。いつでもそんなこと・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・人の足跡もついていないようなその路は歩くたび少しずつ滑った。 高い方の見晴らしへ出た。それからが傾斜である。自分は少し危いぞと思った。 傾斜についている路はもう一層軟かであった。しかし自分は引返そうとも、立留って考えようともしなかっ・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・ 源叔父は嘆息つきつつ小橋の上まで来しが、火影落ちしところに足跡あり。今踏みしようなり。紀州ならで誰かこの雪を跣足のまま歩まんや。翁は小走りに足跡向きし方へと馳せぬ。 下 源叔父が紀州をその家に引取りたりというこ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・夜更け、潮みち、童らが焼し火も旅の翁が足跡も永久の波に消されぬ。 国木田独歩 「たき火」
・・・私は自分の歩いた足跡に花を咲かせることも出来る。私は自分の住居を宮殿に変えることも出来る。私は一種の幻術者だ。斯う見えても私は世に所謂「富」なぞの考えるよりは、もっと遠い夢を見て居る。」「老」が訪ねて来た。 これこそ私が「貧」以・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・たとえば、十匹の蟻が、墨汁の海から這い上って、そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな、そんな工合いの、幽かな、くすぐったい文字。その文字が、全部判読できたならば、私・・・ 太宰治 「父」
・・・お便所にミソの足跡なんか、ついていたひには、お客さまが何と、……」 と言いかけて、さらに大声で笑った。「お便所にミソは、まずいね。」 と僕は笑いをこらえながら、「しかし、御不浄へ行く前でよかった。御不浄から出て来た足では、た・・・ 太宰治 「眉山」
・・・ 巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしかがいしてその足跡が至らなかった青年の一生ということを思わせたいと思ってはさんだのであった。 関東平野の人たちの中には、この『田舎教師』を手にしているのをそこ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・行きには人と犬との足跡のついた同じ道を帰りはただ人だけが帰ってくるのである。安価な感傷と評した人もあったがしかしそれがかなりな真実味をもって表現されている。殺す相談をして雪の中に立っている四人の姿がよくできている。 この映画ではそのほか・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫