・・・ Mの何か言いかけた時、僕等は急に笑い声やけたたましい足音に驚かされた。それは海水着に海水帽をかぶった同年輩の二人の少女だった。彼等はほとんど傍若無人に僕等の側を通り抜けながら、まっすぐに渚へ走って行った。僕等はその後姿を、――一人は真・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 足音が聞こえた。彼れの神経は一時に叢立った。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。「誰れだ汝ゃ」 低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒りに震えていた。「お主こそ誰れだと思うたら広岡さんじ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・十五人の男の歩く足音は、穹窿になっている廊下に反響を呼び起して、丁度大きな鉛の弾丸か何かを蒔き散らすようである。 処刑をする広間はもうすっかり明るくなっている。格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入っ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・その婆さんが湯殿へ来たのは、恰度私が湯殿から、椽側を通って茶の間へ入った頃で、足に草履をはいていたから足音がしない、農夫婆さんだから力があるので、水の入っている手桶を、ざぶりとも言わせないで、その儘提げて、呑気だから、自分の貸したもの故、別・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・自分も声を掛けなかった、三人も菓子とも思わなかったか、やがてばたばた足音がするから顔を出してみると、奈々子があとになって三人が手を振ってかける後ろ姿が目にとまった。 ご飯ができたからおんちゃんを呼んでおいでと彼らの母がいうらしかった。奈・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・彼の坊さんは草の枯れた広野を分けて衣の裾を高くはしょり霜月の十八日の夜の道を宵なので月もなく推量してたどって行くと脇道から人の足音がかるくたちどまったかと思うと大男が槍のさやをはらってとびかかるのをびっくりして逃げる時にふりかえって見ると最・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・後について来ると思たものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様になる、前に進むものが倒れてしまう。自分は自分で、楯とするものがない。」「そこになると、もう、僕等の到底想像出来ないことだ。」「実際、君、そうや。」「わたしは何度も聴・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・なんでも、お天気のいい、静かな日にゆくと、金の鶏が、水の面に浮いているが、人の足音がすると、その鶏の姿は、たちまち水の中に消えてしまうと、お母さんが話しました。」と、信吉は、いいました。「金の鶏? やはり、そんな伝説が伝わっているんです・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・その階子段の足音のやんだ時、若衆の為さんはベロリと舌を吐いた。「三公、手前お上さんの帰ったのを知って、黙ってたな?」「偽だよ! 俺はこっちを向いて話してたもんだから、あの時まで知らなかったんだよ」「俺の喋ってたことを聞いたかしら・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ その時、思いがけず廊下に足音がきこえた。かなり乱暴な足音だった。 私はなぜかはっとした。女もいきなり泣きやんでしまった。急いで泪を拭ったりしている。二人とも妙に狼狽してしまったのだ。 障子があいて、男がやあ、とはいって来た。女・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫