・・・――そら、どかどかと踏込むでしょう。貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、溜飲を下げてやろうと思ったけれど……どんな発機で、自棄腹の、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ さていよいよ猟場に踏み込むと、猟場は全く崎の極端に近い山で雑草荊棘生い茂った山の尾の谷である。僕は始終今井の叔父さんのそばを離れないことにした。 人よりも早く犬は猟場に駆け込んだ。僕は叔父さんといっしょに山の背を通っていると、たち・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ などと、必死のごまかしの質問を発し、二重まわしを脱いで、部屋に一歩踏み込むと、箪笥の上からラジオの声。「買ったのかい? これを」 私には外泊の弱味がある。怒る事が出来なかった。「これは、マサ子のよ」 と七歳の長女は得意・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・けれども、やっぱり酒の店などに一歩足を踏み込むと駄目である。産業戦士たちは、焼酎でも何でも平気で飲むが、私は、なるべくならばビイルを飲みたい。産業戦士たちは元気がよい。「ビイルなんか飲んで上品がっていたって、仕様がないじゃねえか。」と、・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ 会場へ一歩、足を踏み込むときは、私は、鼻じろむほどに緊張していた。今である。故郷に於ける十年来の不名誉を恢復するのは、いまである。名士の振りをしろ、名士の。とんと私の肩を叩いたものがある。見ると、甲野嘉一君である。私は、自分の歯の汚い・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・要太郎の指をさす通りにグサ/\と下駄の踏み込む畔を伝って土手へ上ると、精の足元からまた一羽飛び出して高く舞い上がった。二、三度大廻りをして東の方へ下りた。「何処へ下りましたぞのうし。」「アソコに木が二本あるネー。あの西の方に桑があるだろう。・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
・・・街路の人道から入り口へ踏み込むとすぐ右側に石のベンチのようなものがいくつか並んでいるだけで、狭い低い暗い部屋というだけであった。よく見ると天井に近く壁を取り巻いてさまざまの壁画が描かれてあった。何十いくつとかの verschiedene S・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・弥生町へ一歩踏込むと急に真暗で何も見えぬ。この闇の中を夢のように歩いていると、暗い中に今夜見た光景が幻影となって浮き出る。まじょりかの帆船が現われて蒼い海を果もなく帆かけて行く。海にも空にも船にも歳は暮れかかっている。逝く年のあらゆる想いを・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・一足室の中に踏み込むと、同時に、悪臭と、暑い重たい空気とが以前通りに立ちこめていた。 どう云う訳だか分らないが、今度は此部屋の様子が全で変ってるであろうと、私は一人で固く決め込んでいたのだが、私の感じは当っていなかった。 何もかも元・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・しかし戸を打ち破って踏み込むだけの勇気もなかった。手のものどもはただ風に木の葉のざわつくようにささやきかわしている。 このとき大声で叫ぶものがあった。「その逃げたというのは十二三の小わっぱじゃろう。それならわしが知っておる」 三郎は・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫