・・・――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒された、(再盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷けば好い。殺すか?」――おれはこの言葉だけで・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・現世の心の苦しみが堪えられませぬで、不断常住、その事ばかり望んではおりますだが、木賃宿の同宿や、堂宮の縁下に共臥りをします、婆々媽々ならいつでも打ちも蹴りもしてくれましょうが、それでは、念が届きませぬ。はて乞食が不心得したために、お生命まで・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・そして荒々しく床板を蹴りながら柵のところへやって来た。 豚の鼻さきが一寸あたると柵はがた/\くずれるように倒れてしまった。すると豚は柵の倒れた音で二重に驚いて、なおひどくとび上った。そうしてその拍子にとび/\しながら柵から外へ出た。三人・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴り、めんこ、剣玉、べい独楽というふうに、あるものははやりあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちゃの類までが時につれて移り変わりつつある。私はまた、二人の子供の性質の相違をも考えるようになった。正直で・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・さすがにそれが、ときどき侘びしくふらと家を出て、石を蹴り蹴り路を歩いて、私は、やはり病気なのであろうか。私は小説というものを間違って考えているのであろうか、と思案にくれて、いや、そうで無いと打ち消してみても、さて、自分に自信をつける特筆大書・・・ 太宰治 「鴎」
・・・甲板を下駄で蹴りながら、昨日稽古した「エコー」と云うのを歌う。室へ入ろうとするといつの間にか商人体の男二人その連れらしき娘一人室へいっぱいになって『風俗画報』か何か見ているので、また甲板をあちこち。機関長室からハイカラ先生の鼠色のズボンが片・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度蹴りに蹴った。「おや、何をしていらッしゃるの」 いつの間に人が来たのか。人が何を言ッたのか。とにかく人の声がしたので、善吉はびッくりして起き上ッて、じッとその・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・を、過去の作品としてうしろへきつく蹴り去ることで、それを一つの跳躍台として、より急速な、うしろをふりかえることない前進をめざす状態だった。 一九三二年の春から、うちつづく検挙と投獄がはじまった。その期間に作者はしばしば一人の人間、女とし・・・ 宮本百合子 「あとがき(『二つの庭』)」
・・・は自主性を失って文学の外の力に己を託した日以来、下へ下へと坂を転り、その転る運動を文学の時代的反応の当然の動きであるかのように偽装しながら、この年に入っては、遂に文学性などというものに煩わされる心情を蹴り捨てた一種の作品が流行した。「結婚の・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・そして殴ったりし、蹴りもした。私にだけそんなことをした。私の困るようなことを見つけるのがうまくて、ああ困ったと思うと私はすぐ、その弟の大の男並に脊丈と力のある体と、肉の厚い怒った顔つきを思い合わせ、告げ口されることを思って閉口するのであった・・・ 宮本百合子 「青春」
出典:青空文庫