・・・人間も、そこでは、自然と、山の刺戟に血が全身の血管に躍るのだった。 虹吉は――僕の兄だ――そこで女を追っかけまわしていた。僕が、まだ七ツか八ツの頃である。そこで兄は、さきの妻のトシエと、笹の刈株で足に踏抜きをこしらえ、臑をすりむきなどし・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・また、威海衛の大攻撃と支那北洋艦隊の全滅を通信するにあたっては、「余は、今躍る心を抑へて、今日一日の事を誌さんとす」と、はじめている。これによって見ても、独歩が、如何に当時のブルジョアジーの軍国主義的傾向を、そのまゝ反映していたかゞ伺える。・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・後輩たる者も亦だらしが無く、すっかりおびえてしまって、作品はひたすらに、地味にまずしく、躍る自由の才能を片端から抑制して、なむ誠実なくては叶うまいと伏眼になって小さく片隅に坐り、先輩の顔色ばかりを伺って、おとなしい素直な、いい子という事にな・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・浪がないから竜王の下の岩に躍る白浪の壮観も見えぬ。釣船はそろそろ帆を張って帰り支度をしている。沖の礁を廻る時から右舷へ出て種崎の浜を見る。夏とはちがって人影も見えぬ和楽園の前に釣を垂れている中折帽の男がある。雑喉場の前に日本式の小さい帆前が・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。 かつて東京にいたころ、市内の細流溝渠について知るところの多かったのも、けだしこの習癖のためであろう。これを例すれば植物園門前の細流を見てその源を巣鴨に探り、関口の滝を見ては遠きを・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ躍るを。話しの種の思う坪に生えたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。「後れて行くものは後れて帰る掟か」といい添えて片頬に笑う。女の笑うときは危うい。「・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・並ぶ轡の間から鼻嵐が立って、二つの甲が、月下に躍る細鱗の如く秋の日を射返す。「飛ばせ」とシーワルドが踵を半ば馬の太腹に蹴込む。二人の頭の上に長く挿したる真白な毛が烈しく風を受けて、振り落さるるまでに靡く。夜鴉の城壁を斜めに見て、小高き丘に飛・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ そこへ立って私は、全く変な気がして、胸の躍るのをやめることができませんでした。それはあのセンダードの市の大きな西洋造りの並んだ通りに、電気が一つもなくて、並木のやなぎには、黄いろの大きなランプがつるされ、みちにはまっ赤な火がならび、そ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 人類の文化の進展は、未来に私共の心も躍るような光明を予想させる。従って、自分は自分等人類の未来と共に、この僅かな一節である自分並に、他の多くの女性、女性の芸術家たらんと努力する人々の未来に就てここでは一言も触れようと思わない。 只・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・しかしながら、人間精神の本質とその活動についての根本の理解に、昔ながらの理性と感情の分離対立をおいたままで科学という声をきえば、やっぱりそれは暖く躍る感情のままでは触れてゆけない冷厳な世界のように感じられるであろう。そして、その情感にあるお・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
出典:青空文庫