・・・そして、十三年も勤続している彼の身の上にもやがてこういうことがやって来るのではないかと、一寸馬鹿らしい気がした。が、この場合、与助をたゝき出すのが、主人に重く使われている自分の役目だと思った。そして、与助の願いに取り合わなかった。 与助・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・しかし家に居たく無い、出世がしたい、奉公に出たらよかろうと思わずにはいられない自分の身の上の事情は継続しているので、小耳に挟んだ人の談話からついに雁坂を越えて東京へ出ようという心が着いた。 東京は甲府よりは無論佳いところである。雁坂を越・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・こんな身の上になったのは誰のせいか知らん。誰でも己に為事をしろとさえいえば、己は朝から晩まで休まずに為事をしようと思っているのじゃあないか。この人達も己と同じような人間だ。つい口を開けて物を言えば、己の身の上が分からないことはあるまい。まさ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・二人が何とか藤さんの身の上を語って、千鳥の話を壊しはしまいかと気がもめた。 小母さんは帰ってくるやいなや、「あなたお腹がすいたでしょう。私気になって急いで帰ったのでしたけど」と、初やにお菜の指図をして、「これから当分は何だかさび・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・なんだかそれまでは心の内を隠していたのが、もう向うも身の上が極まったのだから、構わないとでも思ったらしく見えたのね。それからどうだっけ。わたしは焼餅なんぞは焼かなかったわ。それがまた不思議ね。それから生れた女の子の名付親に、お前さんをしたの・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・佐吉さんの兄さんは沼津で大きい造酒屋を営み、佐吉さんは其の家の末っ子で、私とふとした事から知合いになり、私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。佐吉さんの兄さんとは私も逢・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・それは不意に我身の上に授けられた、夢物語めいた幸福が、遠からず消え失せてしまって、跡には銀行のいてもいなくても好い小役人が残ると云うことである。少くも半年間は、いてもいなくても好いと云うことを、立派に上役から証明せられているのである。この恐・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・その姫の言葉は「我命をおしむにはあらねども、身の上に不義はなし。人間と生を請て、女の男只一人持事、是作法也。あの者下/″\をおもふは是縁の道也。おの/\世の不義といふ事をしらずや。夫ある女の、外に男を思ひ、または死別れて、後夫を求るとて、不・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ふとしたことから、こうして囲って置くお妾の身の上や、馴初めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲之町で一時は鳴した腕。芸には達者な代り、全くの無筆である。稽古本で見馴れた仮名より外には何にも読めない明盲目である。この社会の人の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・その上に身を横えた人の身の上も思い合わさるる。傍らには彼が平生使用した風呂桶が九鼎のごとく尊げに置かれてある。 風呂桶とはいうもののバケツの大きいものに過ぎぬ。彼がこの大鍋の中で倫敦の煤を洗い落したかと思うとますますその人となりが偲ばる・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫