・・・しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。」「不思議な、人を牽き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とで・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・私はその瞬間、一ぺんに身体があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。 二 林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子だった。ハワイで生れてハワイの小学校にあがっていたが、日本に帰って勉強するた・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・生れ落ちてから畳の上に両足を折曲げて育った揉れた身体にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆面なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節も聞こう。女優の鞦韆も下からのぞ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・彼は幼少の時激烈なる疱瘡に罹った。身体一杯の疱瘡が吹き出した時其鼻孔まで塞ってしまった。呼吸が逼迫して苦んだ。彼の母はそれを見兼ねて枳の実を拾って来て其塞った鼻の孔へ押し込んでは僅かに呼吸の途をつけてやった。それは霜が木の葉を蹴落す冬のこと・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・昨日までは擦れ合う身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸み出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・物理学というものも、歴史的身体的なる我々の感官の無限なる行為的直観の過程に基くのである。直観的過程において一々の点が始であり終であり、創造的なる所から、無限なる疑問が起るのである。単なる否定から何物も出て来ない。単なる形式論理の立場からは、・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・の第一頁を読むだけでも、独逸的軍隊教育の兵式体操を課されたやうで、身体中の骨節がギシギシと痛んで来る。カントは頭痛の種である。しかし一通り読んでしまへば、幾何学の公理と同じく判然明白に解つてしまふ。カントに宿題は残らない。然るにニイチェはど・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・久しぶりで来ておくれだッたんだから、本統に飲んでおくれ、身体にさえ触らなきゃ。さア私しがお酌をするよ」 吉里はうつむいて、しばらくは何とも言わなかッた。「小万さん、私しゃ忘れやアしないよ」と、吉里はしみじみと言ッた。「平田さん……。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・果して一人の力に叶う事か叶わぬ事か其辺は姑く差置き、兎に角に家を治むる婦人の心掛けとしては甚だ宜し。身体の許す限り勉強す可きなれども、本文中の耳障なるは夫に仕えてと言う其仕の字なり。元来仕えるとは、君臣主従など言う上下の身分を殊にして、下等・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ただ身体が衰弱するというだけではないので、だんだんに痛みがつのって来る。背中から左の横腹や腰にかけて、あそこやここで更る更る痛んで来る事は地獄で鬼の責めを受けるように、二六時中少しの間断もない。さなくても骨ばかりの痩せた身体に終始痛みが加わ・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
出典:青空文庫