・・・来るだろうかという見出しで、また書きたてましたので、約束の日、私が田所さんたちといっしょに天王寺西門の鳥居の下へ行くと、おりから彼岸の中日のせいもあったが、鳥居の附近は黒山のような人だかりで、身動きもできぬくらいだった。私は新聞の記事にあお・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・峻は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばったが、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気なものに思い浮かんだ。 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりしが、耳はなお曲に惹かるるごとく、髭を撚りて身動きもせず。玉は乱れ落ちてにわかに繁き琴の手は、再び流れて清く滑らかなる声は次いで起れり。客はまたもそなたを見上げぬ。 廊下を通う婢を呼び止めて、・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・『オヤいないのだよ』と去ってしまった、それから五分も経ったか、その間身動きもしないで東の森をながめていたが、月の光がちらちらともれて来たのを見て、彼は悠然立って着衣の前を丁寧に合わして、床に放棄ってあった鳥打ち帽を取るや、すたこらと梯子段を・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 老人は、身動きも出来ないように七八本の頑固な手で掴まれている二人の傍へ近づいて執拗に、白状させねばおかないような眼つきをして、何か露西亜語で訊ねた。 吉田も小村も露西亜語は分らなかった。でも、老人の眼つきと身振りとで、老人が、彼等・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・久しく見ざれば停車場より我が家までの間の景色さえ変りて、愴然たる感いと深く、父上母上の我が思いなしにやいたく老いたまいたる、祖母上のこの四五日前より中風とやらに罹りたまえりとて、身動きも得したまわず病蓐の上に苦しみいたまえるには、いよいよ心・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・静かに寝床の上で身動きもせずにいるような隣のおばあさんの側で枕もとの煙草盆を引きよせて、寝ながら一服吸うさえ彼女には気苦労であった。のみならず、上京して二日経ち、三日経ちしても、弟達はまだ彼女の相談に乗ってくれなかった。成程、弟達は久しぶり・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・冬になって木々のこずえが、銀色の葉でも連ねたように霜で包まれますと、おばあさんはまくらの上で、ちょっと身動きしたばかりでそれを緑にしました。実際は灰色でも野は緑に空は蒼く、世の中はもう夏のとおりでした。おばあさんはこんなふうで、魔術でも使え・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・私たちを、へんなお手本に押し込めて、身動きも出来なくさせたのは、一体、誰だったでしょう。それは、先輩というものでありました。心境未だし、デッサン不正確なり、甘し、ひとり合点なり、文章粗雑、きめ荒し、生活無し、不潔なり、不遜なり、教養なし、思・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ 炉の前に、大きな肘掛椅子に埋もれた、一人の白髪の老人が現われる。身動き一つしないで、じっと焔を見詰めている。焔の中を透して過去の幻影を見詰めている。 焔の幕の向うに大きな舞踊の場が拡がっている。華やかな明るい楽の音につれて胡蝶のよ・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
出典:青空文庫