・・・叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の真中で目を瞑ろうとしたのである。 上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。 酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命の数珠が切れそうだった。が、三・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・このまま邪宗とまじわり、弘教せんより、しばらく山林にのがれるにはしかないと、ついに甲斐国身延山に去ったのである。 これは日蓮の生涯を高く、美しくする行持であった。実に日蓮が闘争的、熱狂的で、あるときは傲慢にして、風波を喜ぶ荒々しき性格で・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・後に道善房が死んだとき日蓮は身延山にいたが、深く悲しみ、弟子日向をつかわして厚く菩提を葬わしめた。小湊の誕生寺には日蓮自刻の母親の木像がある。いたって孝心深かった日蓮も法のため母を捨てねばならなかった。己が捨てし母の御姿木に造り千度・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫