・・・すっかり身支度をして、客は二階から下りて来て――長火鉢の前へ起きて出た、うちの母の前へ、きちんと膝に手をついて、―― 分外なお金子に添えて、立派な名刺を――これは極秘に、と云ってお出しなすったそうですが、すぐに式台へ出なさいますから・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ と小宮山は傍を向いて、飲さしの茶を床几の外へざぶり明けて身支度に及びまする。 三 小宮山は亭主の前で、女の話を冷然として刎ね附けましたが、密に思う処がないのではありませぬ。一体この男には、篠田と云う同窓の友・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・とお光は身支度しかけたが、「あの、こないだの写真は空いてて?」「持ってくかい?」「え、あれはほかでちょいと借りたんだから」 五 お光の俥は霊岸島からさらに中洲へ廻って、中洲は例のお仙親子の住居を訪れるので、一・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ 私は起きて、帰る身支度をした。 太宰治 「朝」
・・・ とろとろと、眠りかけて、ふと眼をあけると、雨戸のすきまから、朝の光線がさし込んでいるのに気附いて、起きて身支度をして坊やを脊負い、外に出ました。もうとても黙って家の中におられない気持でした。 どこへ行こうというあてもなく、駅のほう・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ ふたり、厳粛に身支度をはじめた。 あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 節子はうなずいて身支度をはじめた。節子はそのとしの春に、女学校を卒業していた。粗末なワンピースを着て、少しお化粧して、こっそり家を出た。 井の頭。もう日が暮れかけていた。公園にはいると、カナカナ蝉の声が、降るようだった。御殿山。宝・・・ 太宰治 「花火」
・・・長良川木曽川いつの間にか越えて清洲と云うに、この次は名古屋よと身支度する間に電燈の蒼白き光曇れる空に映じ、はやさらばと一行に別れてプラットフォームに下り立つ。丸文へと思いしが知らぬ家も興あるべしと停車場前の丸万と云うに入る。二階の一室狭けれ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・重吉は、いそいで紙片をまとめて身支度にとりかかった。ひろ子は、急にとりいそいだ気になって、「一寸待って。わたし、まだなんだから」 もう一つ自分の弁当をつめた。その日は、ひろ子も同じ方角に出かけなければならないのであった。一緒に出かけ・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫