・・・すると、やがて僕の身辺をそれとなく護衛していたと号する一青年が顕れて、結局酒手と車代とを請求した。給仕女に名刺を持たせてお話をしたい事があるからと言って寄越す人が多い時には一夜に三四人も出て来るようになった。春陽堂と改造社との両書肆が相競っ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・彼の癇癖は彼の身辺を囲繞して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に耽るの余裕を与えなかったと見える。洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・しからざればいらざる風濤の描写を割いて、主人公の身辺に起る波瀾成行をもう少し上手に手際よく叙したらば好かろうと思う。 普通の小説のような脚色がありながら、その方の筋はいっこうできていないで、かえって自然力の活動ばかり目醒しいので、余はこ・・・ 夏目漱石 「コンラッドの描きたる自然について」
・・・て是れ坊主の読むお経の文句を聞くが如く、其意味を問わずして其声を耳にするのみ、果して其意味を解釈するも事に益することなきは実際に明なる所にして、例えば和文和歌を講じて頗る巧なりと称する女学史流が、却て身辺の大事を忘却して自身の病に医を択ぶの・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・丁度無心に咲いている花の、花自身は知らぬ深い美に似たものが、ふき子の身辺にあった。陽子は、自分の生活の苦しさなどについて一言もふき子に話す気になれなかった。 四 妹の百代、下の悌、忠一、又従兄の篤介、陽子まで加・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・下山夫人が妻として良人の自殺を直感して、身辺の者にそのことを洩らしたという事実さえ今日まで公表させませんでした。夫人はどういう圧力に強要されたのか、自殺なんてとんでもないということばをくりかえし公表させられていました。そのために、事件がわけ・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ しかし結局、身辺小説といわれているものに優れた作品の多いことは事実であり、またしたがって当然でもあるが、私はたとい愚作であろうとかまわないから、出来得る限り身辺小説は書きたくないつもりである。理由といっては特に目立った何ものもない。た・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・とにかく、祖国を敗亡から救うかもしれない一人の巨人が、いま、梶の身辺にうろうろし始めたということは、彼の生涯の大事件だと思えば思えた。それも、今の高田の話そのものだけを事実としてみれば、希望と幻影は同じものだった。「しかし、そんな青年が・・・ 横光利一 「微笑」
寺田さんは有名な物理学者であるが、その研究の特徴は、日常身辺にありふれた事柄、具体的現実として我々の周囲に手近に見られるような事実の中に、本当に研究すべき問題を見出した点にあるという。ところで日常身辺の事実が示しているのは単に物理・・・ 和辻哲郎 「寺田寅彦」
問題にしない時にはわかり切ったことと思われているものが、さて問題にしてみると実にわからなくなる。そういうものが我々の身辺には無数に存している。「顔面」もその一つである。顔面が何であるかを知らない人は目明きには一人もないはずであるが、し・・・ 和辻哲郎 「面とペルソナ」
出典:青空文庫