・・・ そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。「おい。おい。あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」 日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げまし・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・すると車夫は十二銭の賃銭をどうしても二十銭よこせと言う。おまけに俺をつかまえたなり、会社の門内へはいらせまいとする。俺は大いに腹が立ったから、いきなり車夫を蹴飛ばしてやった。車夫の空中へ飛び上ったことはフット・ボオルかと思うくらいである。俺・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・として彳んだのは、つい二、三日前の事であった。 腕車を雇って、さして行く従姉の町より、真先に、「あの山は?」「二股じゃ。」と車夫が答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端まで、小児の時には行かなかったので、唯名に聞いた・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 膝掛を引抱いて、せめてそれにでも暖りたそうな車夫は、値が極ってこれから乗ろうとする酔客が、ちょっと一服で、提灯の灯で吸うのを待つ間、氷のごとく堅くなって、催促がましく脚と脚を、霜柱に摺合せた。「何?大分いけますね……とおいでなさる・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 堀形をした細長い田に、打ち渡した丸木橋を、車夫が子どもひとりずつ抱きかかえて渡してくれる。姉妹を先にして予は桑畑の中を通って珊瑚樹垣の下をくぐった。 家のまわりは秋ならなくに、落葉が散乱していて、見るからにさびしい。生垣の根にはひ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ 元気のない哀れな車夫が思い出される。此家の門を潜り入った時の寂しさが思い出される。それから予に不満を与えた岡村の仕振りが、一々胸に呼び返される。 お繁さんはどうしたかしら、どうも今居ないらしい。岡村は妹の事に就て未だ何事もおれには・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・長尻の男だからドコへ行っても長かったが、何処でも俥を待たして置いたから、緑雨の来ているのは伴待や玄関や勝手で長々と臥そべってる緑雨の車夫で直ぐ解った。緑雨の車夫は恐らく主人を乗せて駈ける時間よりも待ってて眠る時間の方が長かったろう。緑雨は口・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ かさを かぶった おじいさんの 車夫です。そして 車の 上には、それは きれいな およめさんが のって いました。 さむく なって、三人は とを しめました。「あれは おばけで ない?」と、正ちゃんが いいました。「き・・・ 小川未明 「こがらしの ふく ばん」
・・・こちらへ近いてくるのを見ると、年の寄った一人の車夫が空俥を挽いている。私は人懐しさにいきなり声を懸けた。 先方は驚いて立留った。「ちょっと伺いますが、ここはいったい何という所でしょう、やっぱり何町の内なんですか。」「なあにお前さ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 俥を下りたのは六十近くの品のいい媼さんで、車夫に銭を払って店へ入ると、為さんに、「あの、私はお仙のお母でございますが、こちらのお上さんに少しお目にかかりたくてまいりましたので……」「まあ阿母さん、よくまあ!」とお光は急いで店先へ出・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫