・・・ 場所が場所だけに見物がだんだん背後に集まって来た。車夫もくれば学生も来ているようであった。しかし大急ぎでこの瞬間の光彩をつかもうとしてもがいている私には、とてもそんな人たちにかまっているだけの余裕はなかった。それでも人々の言葉は時々耳・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 田崎と抱車夫の喜助と父との三人。崖を下りて生茂った熊笹の間を捜したが、早くも出勤の刻限になった。「田崎、貴様、よく捜して置いて呉れ。」「はあ、承知しました。」 玄関に平伏した田崎は、父の車が砂利を轢って表門を出るや否や、小・・・ 永井荷風 「狐」
・・・堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その幹の間から、堤の下に竹垣を囲し池を穿った閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつづいた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界を遮・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・後なる主人も言葉をかける気色がない。車夫はただ細長い通りをどこまでもかんかららんと北へ走る。なるほど遠い。遠いほど風に当らねばならぬ。馳けるほど顫えねばならぬ。余の膝掛と洋傘とは余が汽車から振り落されたとき居士が拾ってしまった。洋傘は拾われ・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
私共が故郷の金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵工廠辺はまだ淋しい所であった。焼鳥の屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側のがけの下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・一時間ばかりここに居たがいよいよ寒けがしてたまらぬから帰る事にして、車夫に負われて車に乗った。 土産に張子細工を一つほしいというたので秀真は四、五本抜いて持って来てくれた。一本選り取って見たら、頬冠した親爺が包を背負って竹皮包か何かを手・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・殊に麻裏草履をまず車へ持ていてもらって、あとから車夫におぶさって乗るなんどは昔の夢になったヨ。愉快だ。たまらない。」(急いで出ようとして敷居に蹶「あぶないぞナ。」「なに大丈夫サ、大丈夫天下の志サ。おい車屋、真砂町まで行くのだ。」「お目出・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・ ぐずぐずして居ると突飛ばされる、早い足なみの人波に押されて広場へ出ると、首をひょいとかたむけて、栄蔵の顔をのぞき込みながら、揉手をして勧める車夫の車に一銭も値切らずに乗った。 法外な値だとは知りながら、すっかり勝手の違った東京の中・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・門から玄関までの間に敷き詰めた御影石の上には、一面の打水がしてあって、門の内外には人力車がもうきっしり置き列べてある。車夫は白い肌衣一枚のもあれば、上半身全く裸らていにしているのもある。手拭で体を拭いて絞っているのを見れば、汗はざっと音を立・・・ 森鴎外 「余興」
出典:青空文庫