・・・そこには苦痛を忘却さしてくれるいわゆるレーテの川があり、歳月はいつしか傷を癒やしてまた新しい情熱を生み出してくれるものである。軍人の未亡人の如きも遺児を育て、遺児なきときは社会事業に捧げ、あるいは場合によっては再婚するというようなことも決し・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 軍人にあるまじきことだ!」 そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。 松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、馳け足で、うしろへ引っかえして報告した。報告がすむと、また前に出て行・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 村の在郷軍人や、青年団や、村長は、入営する若ものを送って来る。そして云う。国家のために入営するのは目出度いことであり、名誉なことであり、十分軍務に精励せられることを希望する、と。 若ものたちは、村から拵えてよこした木綿地の入営服か・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・ 当時若しゾーラをして黙して己ましめんか、彼れ仏国の軍人は遂に一語を出すなくしてドレフューの再審は永遠に行われ得ざりしや必せり。彼等の恥なく義なく勇なきは、実に市井の一文士に如かざりき。彼軍人的教練なる者是に於て一毫の価値ある耶。 ・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・先生は又、あの塾で一緒に仕事をしている大尉が土地から出た軍人だが、既に恩給を受ける身で、読みかつ耕すことに余生を送ろうとして、昔懐しい故郷の城址の側に退いた人であることを話した。「正木さんでも、私でも――矢張、この鉱泉の株主ということに・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・張り切って、お客への愛嬌に女の子をひとり雇ったり致しましたが、またもや、あの魔物の先生があらわれまして、こんどは女連れでなく、必ず二、三人の新聞記者や雑誌記者と一緒にまいりまして、なんでもこれからは、軍人が没落して今まで貧乏していた詩人など・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・私のような兵役免除の丁種が、帝国軍人の妻たる者の心掛けを説こうというのは、どう考えたって少し無理ですよ。 あれの家の前で署長と無言で別れ、私はあれの家の土間にはいって行きました。あなたがこれまで東京に永くいらっしゃったと言っても、やはり・・・ 太宰治 「嘘」
・・・し、風の吹く朝には帽子を阿弥陀にかぶって塵埃を避けるようにして通るし、沿道の家々の人は、遠くからその姿を見知って、もうあの人が通ったから、あなたお役所が遅くなりますなどと春眠いぎたなき主人を揺り起こす軍人の細君もあるくらいだ。 この男の・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・たぶん宿の廚の料理人が引致して連れて行ったものらしく、ともかくもちょうどその晩宿の本館は一団の軍人客でたいそうにぎやかであったそうである。そうしてそのときに池に残された弱虫のほうの雄が、今ではこの池の王者となり暴君となりドンファンとなってい・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・だらけの外套を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦しをなし、火鉢の灰に啖を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、食器、庭園等の美術に対して、尊敬の意も愛惜の念も何にもない。軍人か土方の親方ならばそれでも差支はなか・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫