・・・ 旦那の牧野は三日にあげず、昼間でも役所の帰り途に、陸軍一等主計の軍服を着た、逞しい姿を運んで来た。勿論日が暮れてから、厩橋向うの本宅を抜けて来る事も稀ではなかった。牧野はもう女房ばかりか、男女二人の子持ちでもあった。 この頃丸髷に・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・それが右からも左からも、あるいは彼の辮髪を掃ったり、あるいは彼の軍服を叩いたり、あるいはまた彼の頸から流れている、どす黒い血を拭ったりした。が、彼の頭には、それを一々意識するだけの余裕がない。ただ、斬られたと云う簡単な事実だけが、苦しいほど・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 森鴎外 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人である。 或資本家の論理「芸術家の芸術を売るのも、わたしの蟹の鑵詰めを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思って・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・のみならずしまいには彼の前へ軍服の尻を向けたまま、いつまでも算盤を弾いていた。「主計官。」 保吉はしばらく待たされた後、懇願するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇には明らかに「直です」と云う言葉が出かかっていた・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・本郷の永盛の店頭に軍服姿の鴎外を能く見掛けるという噂を聞いた事もある。その頃偶っと或る会で落合った時、あたかも私が手に入れた貞享の江戸図の咄をすると、そんな珍本は集めないよ、僕のは安い本ばかりだと、暗に珍本無用論を臭わした。が、その口の端か・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・彼は現役ではないのに、相変らず軍服を着用して、威張りかえっていた。私は何となく高等学校を想い出した。銭湯へ行くのにも制服制帽を着用していた生徒たち。分会長は私を見ると、いやな顔をした。その後私は彼の姿を見なかったが、先日、それは戦争がすんで・・・ 織田作之助 「髪」
・・・それそれ軍服のこの大きな孔、孔の周囲のこの血。これは誰の業? 皆こういうおれの仕業だ。 ああ此様な筈ではなかったものを。戦争に出たは別段悪意があったではないものを。出れば成程人殺もしようけれど、如何してかそれは忘れていた。ただ飛来る弾丸・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 吉永は、とび上った。 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと唸り去った。「おい、坂本! おい!」 彼は呼んでみた。 軍服が、どす黒い血に染った。 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。 内地を出発して、ウラ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ある夕方浜田は、四五人と一緒に、軍服をぬがずに、その毛布にごろりと横たわっていた。支那人の××ばかりでなく、キキンの郷里から送られる親爺の手紙にも、慰問袋にも××××がかくされてあるのに気づいた中隊幹部は非常にやかましくなってきた。 オ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 晩に、どこかへ大隊長が出かけて行く、すると彼は、靴を磨き、軍服に刷毛をかけ、防寒具を揃えて、なおその上、僅か三厘ほどのびている髯をあたってやらなければならなかった。髯をあたれば、顔を洗う湯も汲んできなければならない。…… 少佐殿は・・・ 黒島伝治 「橇」
出典:青空文庫