・・・ 文公は路地口の軒下に身を寄せて往来の上下を見た。幌人車が威勢よく駆けている。店々のともし火が道に映っている。一二丁先の大通りを電車が通る。さて文公はどこへ行く? めし屋の連中も文公がどこへ行くか、もちろん知らないがしかしどこへ行こうと・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・舷燈の光射す口をかなたこなたと転らすごとに、薄く積みし雪の上を末広がりし火影走りて雪は美しく閃めき、辻を囲める家々の暗き軒下を丸き火影飛びぬ。この時本町の方より突如と現われしは巡査なり。ずかずかと歩み寄りて何者ぞと声かけ、燈をかかげてこなた・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・表の戸は二寸ばかり細目に開けてあるのを、音のせぬように開けて、身体を半分出して四辺を見まわすようであったが、ツと外に出た。軒下に立っているのが昨夜お梅から『お菊さんによろしく』と冷やかされた男。『オヤ磯さん? なぜそんなところに立ってる・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・貧しい家の軒下には、茶色な――茶色なというよりは灰色な荒い髪の娘が立って、ションボリと往来の方を眺めていた。高瀬は途を急ごうともせず、顔へ来る雨を寧ろ楽みながら歩いた。そして寒い凍え死ぬような一冬を始めてこの山の上で越した時分には風邪ばかり・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 新七はお力に手伝わせて、葦簾がこいにした休茶屋の軒下の位置に、母の食卓を用意した。揚物の油の音は料理場の窓越しにそこまで伝わって来ていた。「御隠居さんはここへいらしって下さい。ここでお昼飯を召上って下さい。内は反ってご・・・ 島崎藤村 「食堂」
千鳥の話は馬喰の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆を敷いてしょんぼりと坐っている。干し列べた平茎には、もはや糸筋ほどの日影もささぬ。洋服で丘を上ってきたのは自分である。お長は例の泣きだしそうな目もとで・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・博士は、花屋さんの軒下に、肩をすくめて小さくなって雨宿りしています。ときどき、先刻のハンケチを取り出して、ちょっと見て、また、あわてて、袂にしまいこみます。ふと、花を買おうか、と思います。お宅で待っていらっしゃる奥さんへ、お土産に持って行け・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・雨さえ降ってなけや、その辺の軒下にでも寝るんだが、この雨では、そうもいかねえ。たのみます」「主人もおりませんし、こんな式台でよろしかったら、どうぞ」 と私は言い、破れた座蒲団を二枚、式台に持って行ってあげました。「すみません。あ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ とにかく雨にこんなに濡れては、かなわないので、私は、そっと豆腐屋の軒下に難を避けて、「こちらへいらっしゃい。雨が、ひどくなりました。」「ええ。」と素直に、私と並んで豆腐屋の軒下に雨宿りして、「津軽でしょう?」「そうです。」・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・晴れた日には庭一面におしめやシャツのような物を干す、軒下には缶詰の殻やら横緒の切れた泥塗れの女下駄などがころがっている。雨の日には縁側に乳母車があがって、古下駄が雨垂れに濡れている。家の中までは見えぬがきたなさは想像が出来る。細君からして随・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
出典:青空文庫