・・・穴の奥でひとしきりゴオと風の音がすると、焔は急に大きくなって下の石炭が活きて輝き始める。 炉の前に、大きな肘掛椅子に埋もれた、一人の白髪の老人が現われる。身動き一つしないで、じっと焔を見詰めている。焔の中を透して過去の幻影を見詰めている・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・雲が破けて、陽光が畑いちめんに落ちると、麦の芽は輝き躍って、善ニョムさんの頬冠りは、そのうちにまったく融けこんでしまった。 それだから、ちょうどそのとき、一匹の大きなセッター種の綺麗な毛並の犬が、榛の木の並樹の土堤を、一散に走ってくるの・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・父が書斎の丸窓外に、八手の葉は墨より黒く、玉の様な其の花は蒼白く輝き、南天の実のまだ青い手水鉢のほとりに藪鶯の笹啼が絶間なく聞えて屋根、軒、窓、庇、庭一面に雀の囀りはかしましい程である。 私は初冬の庭をば、悲しいとも、淋しいとも思わなか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・偉大なる人格を発揮するためにある技術を使ってこれを他の頭上に浴せかけた時、始めて文芸の功果は炳焉として末代までも輝き渡るのであります。輝き渡るとは何も作家の名前が伝わるとか、世間からわいわい騒がれると云う意味で云うのではありません。作家の偉・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 小さな葉、可愛らしい花、それは朝日を一面に受けて輝きわたっているではないか。 総べてのものは、よりよく生きようとする。ブルジョア、プロレタリア―― 私はプロレタリアとして、よりよく生きるために、ないしはプロレタリアを失くするた・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・また旅をするようになってから、ある時は全世界が輝き渡って薔薇の花が咲き、鐘の声が聞えて余所の光明に照されながら酔心地になっていた事がある。そういう時はあらゆる物事が身に近く手に取るように思われて己も生きた世界の中の生きた一人と感じたものだ。・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ マリヴロンはかすかにといきしたので、その胸の黄や菫の宝石は一つずつ声をあげるように輝きました。そして云う。「うやまいを受けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気な顔をなさるのですか。」「私はもう死んでもいいのでございま・・・ 宮沢賢治 「マリヴロンと少女」
月そそぐいずの夜揺れ揺れて流れ行く光りの中に音もなく一人もだし立てば萌え出でし思いのかいわれ葉瑞木となりて空に冲る。乾坤を照し尽す無量光埴の星さえ輝き初め我踏む土は尊や白埴木ぐれに潜む物の・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・と、見る間に、ナポレオンの口の下で、大理石の輝きは彼の苦悶の息のために曇って来た。彼は腹の下の床石が温まり始めると、新鮮な水を追う魚のように、また大理石の新しい冷たさの上を這い廻った。 丁度その時、鏡のような廻廊から、立像を映して近寄っ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・やがて時が迫って来て彼女の特有な心持ちにはいると、突如全身の情熱を一瞬に集めて恐ろしい破裂となり、熱し輝き煙りつつあるラヴァのごとくに観客の官能を焼きつくす。その感動の烈しさは劇場あって以来かつてない事である。この瞬間には彼女は自己というも・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫