・・・ ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふしをつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに辛い思いをすることか。 私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめの・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・稽古唄の文句によって、親の許さぬ色恋は悪い事であると知っていたので、初恋の若旦那とは生木を割く辛い目を見せられても、ただその当座泣いて暮して、そして自暴酒を飲む事を覚えた位のもの、別に天も怨まず人をも怨まず、やがて周囲から強られるがままに、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・今晩こうやって演説をするにしても、私の一字一句に私と云うものがつきまつわっておってどうかして笑わせてやろう、どうかして泣かせてやろうと擽ったり辛子を甞めさせるような故意の痕跡が見え透いたら定めし御聴き辛いことで、ために芸術品として見たる私の・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・この壁の周囲をかくまでに塗抹した人々は皆この死よりも辛い苦痛を甞めたのである。忍ばるる限り堪えらるる限りはこの苦痛と戦った末、いても起ってもたまらなくなった時、始めて釘の折や鋭どき爪を利用して無事の内に仕事を求め、太平の裏に不平を洩らし、平・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これまでにして亡くしたのは惜しかろうといって、悔んでくれる人もある、しかしこういう意味で惜しいというのではない。女の子で・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・本統に辛いの。私の身にもなッて察して下さいよ」「実に察しる」と、西宮はしばらく考え、「実に察しているのだ。お前さんに無理に頼んだ私の心の中も察してもらいたい。なかなか私に言えそうもなかッたから、最初は小万に頼んで話してもらうつもりだッた・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・タネリは辛い塩水の中でぼろぼろ涙をこぼしました。犬神はおかしそうに口をまげてにやにや笑ってまた云いました。「ちょうざめ、どうしたい。」するとごほごほいやなせきをする音がしてそれから「どうもきのこにあてられてね。」ととても苦しそうな声がしまし・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・ 左の第二指に出来た水ぶくれが痛んで音を出し辛い。 すぐやめて仕舞う。 西洋葵に水をやって、コスモスの咲き切ったのを少し切る。 花弁のかげに青虫がたかって居た。 気味が悪いから鶏に投げてやると黄いコーチンが一口でたべて仕・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・これを叱るのは、僕には一番辛いことですが、影では、どうか何を云っても赦して貰いたい、工場の中だから、君を呼び捨てにしないと他のものが、云うことを聞いてはくれない、国のためだと思って、当分は赦してほしいと頼んであるんです。これは豪い男ですよ。・・・ 横光利一 「微笑」
・・・甘いものは甘い、辛いものは辛いというと同じように可愛い。ここまで育てて置いて亡くしたのは惜しかろうと言って同情してくれる人もあるが、そんな意味で惜しいなどという気持ちではない。また女の子でよかったとか、ほかに子供もあるからとかと言って慰めて・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫