・・・ もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き、大声で教えてくれるだろう。もし少女であったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であっ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・たとい田の畔での農夫と農婦との野合からはいった結婚でさえも、仲人結婚より勝っている。こんな人生の大道を真直ぐに歩まないのでは後のことは話しにならない。夫婦道も母性愛も打ち建てるべき土台を失うわけである。その人の子を産みたいような男子、すなわ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 文士筆を揮ふは、猶武人の剣を揮ふが如く、猶、農夫の※内に耕すもの、農夫の家国に対する義務ならば、文士紙を展べて軍民を慰藉するもの、亦必ず文士の家国に対する義務ならざるべからず。たとへ一概に然かく云ふこと能はざるまでも、戦時に於ける文士・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・或人は某地にその人が日に焦けきったただの農夫となっているのを見たということであった。大噐不成なのか、大噐既成なのか、そんな事は先生の問題ではなくなったのであろう。 幸田露伴 「観画談」
・・・路行く人や農夫や行商や、野菜の荷を東京へ出した帰りの空車を挽いた男なんどのちょっと休む家で、いわゆる三文菓子が少しに、余り渋くもない茶よりほか何を提供するのでもないが、重宝になっている家なのだ。自分も釣の往復りに立寄って顔馴染になっていたの・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・彼もどうやら若い農夫として立って行けそうに見えて来た。 いったい、私が太郎を田舎に送ったのは、もっとあの子を強くしたいと考えたからで。土に親しむようになってからの太郎は、だんだん自分の思うような人になって行った。それでも私は遠く離れてい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・年若い農夫としての太郎は、過ぐる年の秋の最初の経験では一人で十八俵の米を作った。自作農として一軒の農家をささえるには、さらに五六俵ほども多く作らせ、麦をも蒔かせ、高い米を売って麦をも食うような方針を執らせなければならない。私は太郎の労力を省・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・(私はこの手記に於いて、ひとりの農夫の姿を描き、かれの嫌悪すべき性格を世人に披露し、以て階級闘争に於ける所謂「反動勢力」に応援せんとする意図などは、全く無いのだという事を、ばからしいけど、念のために言い添えて置きたい。それはこの手記のお・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・と自分は人間の、しかも昔のままの貧書生の姿で呉王廟の廊下に寝ている。斜陽あかあかと目前の楓の林を照らして、そこには数百の烏が無心に唖々と鳴いて遊んでいる。「気がつきましたか。」と農夫の身なりをした爺が傍に立っていて笑いながら尋ねる。・・・ 太宰治 「竹青」
・・・朝日が美しく野の農夫の鋤の刃に光る。 「もし、もし、もし」 と男は韻を押んだように再び叫んだ。 で、娘も振り返る。見るとその男は両手を高く挙げて、こっちを向いておもしろい恰好をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、留針がな・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫