・・・やはりお人好のお婆さんと二人でせっせと盆に生漆を塗り戸棚へしまい込む。なにも知らない温泉客が亭主の笑顔から値段の応対を強取しようとでもするときには、彼女は言うのである。「この人はちっと眠むがってるでな……」 これはちっとも可笑しくな・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・また一方では捲きあがって行った縁が絶えず青空のなかへ消え込むのだった。こうした雲の変化ほど見る人の心に言い知れぬ深い感情を喚び起こすものはない。その変化を見極めようとする眼はいつもその尽きない生成と消滅のなかへ溺れ込んでしまい、ただそればか・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・彼は傍に立って見ているばあさんと、田舎の大きな深く土に喰い込む鍬をなつかしがった。そして、二度も三度も丹念に土を掘り返した。「こんな土を遊ばしとくんは勿体ない。何ど菜物でも植えようか。」とじいさんは、ばあさんに相談した。「これでも、・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・それで順番に各自が宛がわれた章を講ずる、間違って居ると他のものが突込む、論争をする、先生が判断する、間違って居た方は黒玉を帳面に記されるという訳なのです。ですから、「彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ」とい・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ それを思うと、おげんは大急ぎでその廊下を離れて、馳け込むように自分の部屋に戻った。彼女は堅く堅く障子をしめ切って置いて、部屋に隠れた。 九月も末になる頃にはおげんはずっと気分が好かった。おげんは自分で考えても九分通りまでは好い身体・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・それから歩いているうちに床板の透間から風が吹き込むでしょう。そうすると足がつめたくなるもんだからそういうの。「おう、つめたい。馬鹿めが煖炉に火を絶やしやあがったな」なんかんというのよ。それからどうかすると、内に帰って来て上沓・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・その道筋は軌道を越して野原の方へ這入り込む。この道は暗緑色の草が殆ど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った輪の跡が二本走っている。 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・春の日が室の中までさし込むので、実に暖かい、気持ちが好い。机の上には二、三の雑誌、硯箱は能代塗りの黄いろい木地の木目が出ているもの、そしてそこに社の原稿紙らしい紙が春風に吹かれている。 この主人公は名を杉田古城といって言うまでもなく文学・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・しかしコリントゲームの方には公算的統計的の要素が入り込む。前者では因果の連鎖が一筋の糸でつづいているが、後者では因果の中間に蓋然の霧がかかっている。それで、前者では練習さえ積めばかなりの程度までは思いのままにあらゆる有様を再現することが出来・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ 雪は紛々として勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯についた雪の塊が半ば解けて、土間の上は早くも泥濘になって居た。御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々として、寒さに顫えながら・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫