・・・私は冬季休暇で、生家に帰り、嫂と、つい先日の御誕生のことを話し合い、どういうものだか涙が出て困ったという述懐に於て一致した。あの時、私は床屋にいて散髪の最中であったのだが、知らせの花火の音を聞いているうちに我慢出来なくなり、非常に困ったので・・・ 太宰治 「一燈」
・・・僕も父親の遺産のおかげで、こうしてただのらくらと一日一日を送っていて、べつにつとめをするという気も起らず、青扇の働けたらねえという述懐も、僕には判らぬこともないのであるが、けれど青扇がほんとうにいま一文も収入のあてがなくて暮しているのだとす・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・これはメリメのつつましい述懐ではなかったか。夜、寝床にもぐってから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくこう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、芸術家のコンフィテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんや・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・戸石君はいつか、しみじみ私に向って述懐した事がある。「顔が綺麗だって事は、一つの不幸ですね」 私は噴き出した。とんでもない人だと思った。戸石君は剣道三段で、そうして身の丈六尺に近い人である。私は、戸石君の大きすぎる図体に、ひそかに同・・・ 太宰治 「散華」
・・・という工合いによその人が、田舎の人の暮しを傍観して述懐したもののように解しているようだが、それだったら、実に、つまらない句だ。「此筋」も、いやみったらしいし、「お金が無いから不自由だろう」という感想は、あまりにも当然すぎた話で、ほとんど無意・・・ 太宰治 「天狗」
・・・芥川龍之介も、そのような述懐を、何かの折に書き記して在ったように記憶する。私は事実そのような疑問にひっかかり、「私」という主人公を、一ばん性のわるい、悪魔的なものとして描出しようと試みた。へんに「いい子」になって、人々の同情をひくよりは、か・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・いつか友人がまじめくさった顔をして、バアナアド・ショオが日本に生れたらとても作家生活が出来なかったろう、という述懐をもらしたので私も真面目に、日本のリアリズムの深さなどを考え、要するに心境の問題なのだからね、と言い、それからまた二つ三つ意見・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ ウンラートが気が狂ったのを見て八重子のポーラが妙な述懐のようなことを述べるせりふがあるが、あれはいかにも、ああした売女の役をふられた八重子自身が贔屓の観客へ対しての弁明のように響いて、あの芝居にそぐわないような気がした。ポーラはやはり・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・胡桃の裏に潜んで、われを尽大千世界の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆のうちに蒼天もある、大地もある。一世師に問うて云う、分子は箸でつまめるものですかと。分子はしばらく措く。天下は箸の端にかかるのみならず、一たび掛け得れば・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・そのうちエリザベスが幽閉中の二王子に逢いに来る場と、二王子を殺した刺客の述懐の場は沙翁の歴史劇リチャード三世のうちにもある。沙翁はクラレンス公爵の塔中で殺さるる場を写すには正筆を用い、王子を絞殺する模様をあらわすには仄筆を使って、刺客の語を・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫