・・・「そんな話迷信やわ」 いきなり女が口をはさんだ。斬り落すような調子だった。 風が雨戸を敲いた。 男は分厚い唇にたまった泡を、素早く手の甲で拭きとった。少しよだれが落ちた。「なにが迷信や。迷信や思う方がどだい無智や。ちゃん・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・信仰の流行地帯である。迷信の温床である。たとえば観世音がある。歓喜天がある。弁財天がある。稲荷大明神がある。弘法大師もあれば、不動明王もある。なんでも来いである。ここへ来れば、たいていの信心事はこと足りる。ないのはキリスト教と天理教だけであ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・――迷信に近いほどそんなことが思われた。そして旱の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。 そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想にひきとめて・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 吉田はそんな話を聞くにつけても、そういう迷信を信じる人間の無智に馬鹿馬鹿しさを感じないわけにいかなかったけれども、考えてみれば人間の無智というのはみな程度の差で、そう思って馬鹿馬鹿しさの感じを取り除いてしまえば、あとに残るのはそれらの・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ そのわけは近代的な思想や、感覚に強い感受性を持っているということは、生命力の活々しさと頭の鋭さとを示すものであるのに、それがまた一見古臭く、迷信的に見える宗教に深い関心をもっているというのは、生命の神秘に対する直観力があるからであって・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・来世の迷信から、その妻子・眷属にわかれて、ひとり死出の山、三途の川をさすらい行く心ぼそさをおそれるのもある。現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・なう諸種の事情である、其二三を挙ぐれば、天寿を全うして死ぬのでなく、即ち自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾其他の原因から夭折し、当然享くべく味うべき生を、享け得ず味わい得ざるを恐るるのである、来世の迷信から其妻子・眷属に別れて独り死出の山・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪い谷間の町の空気に響けて、私の部屋の障子にまで伝わって来ていた。 私たちの家の入り口へ来て立つような貧困者も多くなった。きのうは一人来た。きょうは二人来た・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・博士は、もともと迷信を信じません。けれども今夜は、先刻のラジオのせいもあり、気が弱っているところもございましたので、ふいとその辻占で、自分の研究、運命の行く末をためしてみたくなりました。人は、生活に破れかけて来ると、どうしても何かの予言に、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・しばらく、こうしているうちに、眠たくなって来るような迷信が私にあるのだ。けさの水たまりを思い出す。あの水たまりの在るうちは、――と思う。むりにも自分にそう思い込ませる。やはり私は辻音楽師だ。ぶざまでも、私は私のヴァイオリンを続けて奏するより・・・ 太宰治 「鴎」
出典:青空文庫